人の歩かない音楽の道を

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Dynasties Fall
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私達が人の歩かない音楽の道を辿り始めたのは、1990年のことだった。

その頃インドのヴァラナシで暮らしていた私達は、独自の一風変わった楽器を発明、制作して演奏し始め、当初から、二人のどちらもが自作の楽器を全部弾くように心がけた。 そして自分で創った新しい楽器が増えて小さな楽団になると、従来の音楽が構造そのものに組み込まれている、普通の楽器を弾くのを止めた。

その結果、私達の音楽が伝統的な調性から離れて行っても気にならなかったし、より自由な調律が、さらに一歩進んで厳格に数えるリズムを捨てる方向にも導いてくれたのは、喜ばしいことだった。

また人前での演奏は、好きでは無いので避けるようにした。

そして、こう言った様々な条件を満たすには、独自の音楽をするしかない、と言うことも受け容れた。

もちろん、1990年 にこのプログラムが完成した形で生まれた訳ではない。 その時点で音楽は、私達がヴァラナシで謳歌していたお金の掛からない気楽な生活の一部に過ぎず、一杯のチャイとガンガジーへ泳ぎに行く合間にすることだった。

当時の私達にとって、音楽はただ楽しむ為のものだった。  とは言うものの、このウェブサイトの至る処に見られる重要な洞察の多くが、私達がはまり込んでいたヴァラナシのインド古典音楽界で味わった幻滅から発展したのは確かだが。  それに、創作楽器の小さなオーケストラを作り始めたのがインドであったことは、言うまでも無い。

だから私達の根本的 に違うやり方は、明快な思考の産物では決してなく、むしろ自分なりに音楽への関わり方を手探りする内、ゆっくりと進化したのだった。 でも今振り返ると、何らかの型破りな道を歩むことが、何時の日か真に独創的な音楽に必ずたどり着く、最も簡単で直接で、おそらく私達に辿れる唯一の道でもあっただろうと思わずにはいられない。

ともあれ、インド文化の哀しい崩壊 とそれに伴う手の付けようがない公害 ( 騒音、ゴミ、人口、車...) に強いられて、1998年に私達は惜しみつつ、ヴァラナシのささやかで美しい生活から逃げ出さざるを得なくなり、日本で数ヶ月過ごした後、アメリカに帰国した。

それでも私達は、二人で歩く音楽人生がインドで始まったことに、永遠に感謝し続けるだろう。

20世紀末のバブルと好景気の中で、母国 (日本とアメリカ) に居ながら誠実さを失うまいと苦心する  (そしておそらく失敗する) 代りに、私達の暮らしはより質素に、また古風にと変わって行った。

焼き直しのロックやジャズ、ラップの砲撃を浴びる代りに、色々なタイプの生ぬるいフュージョンになだめられる代りに、私達は消え行く偉大なインド古典音楽の伝統に深く浸り、その最後の美しい音を聴くという恩恵 (甘くも苦い味ではあったが) にあずかった。

またレコードにぴったり収まるよう巧妙に制作されたラーガよりも、ドゥルパッドやバジャン、トゥムリを耳にしがちな、インド最古の都市、頑固に保守的なヴァラナシに住めたのは、この上ない幸運だったとも思う。

...そこではまだ、年毎に益々多くの寺院のスピーカーから押し付けがましく鳴り響く、アンプの効き過ぎたバリウッド風の似非賛歌を、寺院の鐘の柔らかな響きや、聖なる河へ沐浴に行く信者の敬虔な祈りが調和し、時には千年前に道を間違えて、この哀しく薄っぺらな現代社会へ偶然迷い込んだ流しの楽人の、摩訶不思議な音楽が漂うことさえあった。
*

現代社会への帰郷

残念ながら二十世紀へ戻ることには、重大な経済的影響があった。 インドなら100ドルで一と月分の出費を充分賄えたが、アメリカではとても暮らして行けない。 そこで初めて、音楽から収入を得ようと私達は考え始めた。 (その間、限られた資金を長続きさせる為、北カリフォルニアの、年中日が当たらず湿気の多いレッドウッド原生林に囲まれた、可愛らしいが朽ちかけた、格安トレーラーに住んだ。)

でも人前での演奏が選択肢でないことは分かっていた。

事実最初から私達の音楽は、楽しみであると同時に精神的な (良い言葉だがあらゆる類のペテン師に乗っ取られてしまった) 修行であり、求めに応じて他人の前でやれることではなかった。 確かに音楽している自分達の真似をして、聴く人を十分満足させる位はできる。 だが自分自身をだませはしない。 「パフォーマンス」 する時には、安全なものに囚われ、楽に出来るものばかり演奏することを知っているし、すると、当然私達の音から魔法が消えてしまう。

パフォーマンスで自分達の音楽を世に送り出すことが出来ないならと、2001年に思い切って初心者レベルの録音編集機器を購入し、自宅のトレーラーで私達最初の CD “Huhnandhuhn” を制作した。

このCD は私達が望んだよりもずっと面白く、良い音に仕上がったが、音楽界公認の門番達 (評論家、DJ、著名な音楽家、教授、等々) の関心を引くには至らなかった。 それどころか地位と権威のある人々は悉く私達を無視した。 Huhnandhuhn は何度かラジオで放送されただけで、批評一つ書かれず終いとなった。

完璧には程遠いものの、真新しく、時には美しくもある音楽を創造したことを私達自身は知っていたから、これにはひどく戸惑いを覚えた。 一体どうして 「音楽愛好家」 のお偉方達は揃いも揃って、心が狭いのだろうか?

その頃の私達は世間知らずで、新しいものが既に認められた形で 「新しく」 なければ拒否するのが、この門番達の最も大事な任務の一つであることを理解していなかった。

言うまでもなく、私達の音楽を広めるのに必要な援助の手を差し延べるべき、正にその人達からの完全な拒絶に対する反応は、まずひどく落ち込むことだった。

でも次第に落ち込みが憤りとなり、そしてこの怒りから得たエネルギーで仕事に舞い戻った。

ギターとドラムを使って音楽を創る人はいくらでもいる、だから私達の第一歩はこの二つの楽器を仕舞い 込み (それまで毎日弾いていた楽器で、Huhnandhuhnの三曲に使われている) 、世界に一つしかない、独自の創作楽器の制作と演奏に集中できるようすることだった。

ギターとドラム (たいていはインドの太鼓、パカワジ) の伴奏で唄うのが大好きだったから、心残りが無い訳ではなかったが、ぼんくら共に思い知らせるには、一層深く新しい音楽にのめり込むしかないと私達は感じていた。

だからこの方向転換をし、 2003年にニューメキシコへ引っ越した後、私達の音楽がどんどん成長し始めた時の喜びは大きかった。

事実、2005年に二枚目の CD Sweet Heresy に録音した音楽の美と力は、私達が歩んで来た型破りな音楽の道が行き止まりではなかったと、はっきりと証明してくれた。

残念ながら、何が良い趣味かを決める権威のある人達は、又もや故意に私達を無視したのだった。 その為 Sweet Heresy はほんの少ししか売れず、私達は借金地獄に陥るばかりで、程なく残された選択肢は、生活を支える何か別の方法を見つけるか心中か、と言う所まで来てしまった。

おそらく知らなくてかえって良かったのだろうが、その頃の私達は、この逼迫した経済危機が、生活の苦労の多い、長い年月の始まりに過ぎないことを知らなかった。 借金を抱えているか働き過ぎが当たり前の時期。

自分達の危うい経済状況を長々と書き連ねてごめんなさい。 でもこの時期、私達がかつての恵まれた身分から脱落する最中にあったことを知っていると、私達の音楽 (歌とこのウェブサイトも含め) の成長 を理解し易くなる。 もし「生まれ落ちた階級」の大多数と同様、私達も労せずして快適な暮らしを続けていたら、自分の力で何かをしたり、厄介な事でも何らかの解決へと導くことを学ぶ必要は決してなかっただろう(この様な努力や柔軟性は 「人の歩かない音楽の道を」 進む為には欠かせない)。  「専門家」の意見 に頼り続け、彼らのほとんどが、何を言っているのか自分でも分かっていない事実に、目をつぶろうとしただろう。 昔からの友人が言うことを本気と信じ続け、彼らの言動と行動の違いに気付かなかったかも知れない。 私達の新しい友人、労働者階級の素晴らしい人々に敬意を持って受け入れられることはなかっただろう。 剽軽で自分が誰かを知り、その汗と労働のおかげで社会が成り立ち、私達みんなの暮らしを可能にしてくれる、そんな人達に。

Dark CloudsHand in Handは、私達が「生まれた時の階級」と呼ぶ人達について歌っている。 私達自身と同様、平穏な人生を送るべく生まれ、でも私達と違って、実際にした仕事の価値よりもはるかに高い報酬と、自らの力で得たのではない成功に至るエスカレーターから降りなかった人達。

私達が長年友人として付き合っていたこれらの人達も、かつては理想に燃え夢を描く若者だった。 けれども今ではエスカレーターを途中下車して、成功やお金と引きかえに素晴らしい人生を選んだ私達を、敗残者としか見ることができない。 この二つの歌で私達は、そんな行き場のない怒りを正直に、情け容赦なくぶちまけている。 彼らを良く知っているから、その立派な見せかけに隠れた弱さや愚かさ、傲慢や恐れが私達には見えたのだった。

だから経済的不安は、貴重な、またある意味で幸運な経験でもあった。 遅ればせながら、自分達がそれまでどんな人間だったのか、その時点でどんな人間なのか、そしてどんな人間になりたいのか、しばしば痛みを伴う程厳しく見つめさせたから。

事実、最も絶望的に思えた時でさえ、大勝利の時期でもあった。

花壇の山野草が、あまり同情しない目にも美しく映る程に育った時期。 私達の規格外れな食生活にさらに磨きをかけ、美味しく優雅で、お金の掛からない栄養たっぷりの御飯を、次々と作り出した時期。 幾つもの美しい家具と、素敵な四分音カリンバの二台目を作った時期。  二人して東西両洋の古典文学に深く浸った時期。 私達の体がより強く、細身で柔軟になった時期。 それまで引きずっていた上流階級の習慣や先入観から脱皮し、労働者階級の強さを新たに身に付けた時期。 不安に直面しながら正しく振舞うことを学んだ時期。 お互いへの愛がより深まった時期。

そしてもちろんこれら全ての直接の結果として、私達の音楽がかつて無かった程成長した時期でもあった。 私達自身がより良く大きな人間になったからこそ、私達の音楽にも深みが増した。 以前より注意深くなったから、音楽がいっそう洗練されたものとなった。 よりはっきりと物事が見える様になったから、音楽もさらに気高く神秘に、哀しく変貌して行った。

この苦闘と輝かしい勝利の日々がなければ、私達の三枚目のCD、Work In Progress の驚異的に美しい音楽を作り出すことは不可能だったろう。
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翻訳業という実り多い廻り道

少々先走りしてしまったようだ...

...話を2005年に戻そう。 その頃私達は日増しに無一文に近付きつつ、決死の覚悟で金を稼ぐ方法を探していた。

幸い二人が協同して働けば、日本語のビジネス文書を質の高い英語に翻訳できると分かり、以来、計り知れない量の契約書や世論調査、ビジネスメールの遣り取り、雑誌の記事、法的供述書、その他もっと退屈な文書を翻訳して来た。

そして今振り返ると、身を粉にして働いて、音楽をないがしろにせざるを得なかったこの時期にも、私達は何かを学び成長し、後に Work In Progress として実を結んだ飛躍的な創作活動の基礎を築いていたのだった。

おそらく最も重要なのは、より快適にコンピューターを使えるようになったことだろう。 翻訳の仕事に強いられて、私達はWord のあらゆる書式設定オプションに詳しくなり、Excel や PowerPoint 等のプログラムに熟練したばかりか、コンピューターに長時間向かう毎日に耐え、お尻と脳味噌にタコができるまで頑張らねばならなかった。

また誇りを持てるような翻訳をするのは極めて難しく、完全な集中を要する。 だから次々と際限なくやって来る仕事をこなすことで、私達はより強く鋭くなったし、二人協同で働いたことで、既にテレパシーに近かったコミュニケーションがより密になった。 打ち合わせも楽譜も無く、全て即興の私達の音楽には、以心伝心が不可欠なのだ。

その結果、長時間コンピューターに釘付けで、自分達の楽曲を編集するのが困難な作業ではなくなった。 正直言って、文章の拙い、根本的に愚劣なビジネス文書を翻訳することに比べれば、音楽編集に過ごす時間はとても楽しい体験だった。

さらに、翻訳家として身に付けたコンピューターの知識が無ければ、Work In Progress の音楽を録音、編集するのに使ったプログラム Tracktion2 や、このウェブサイトの制作に使ったプログラム WordPressを使いこなすのに苦労したことだろう。
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録音のお社

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いずれにせよ、翻訳の仕事に数年が明け暮れた後、事情が変わってどうも再び借金を抱えることになりそうな兆しが見えた。 そこでまだお金がある内にと思い、2009年に 1,263ドル (13~15万円位) を奮発して、長年の夢だった多重録音システムを手に入れた。

限られた予算を気にしながら、色々な選択肢を慎重に考慮した末に私達が買った装備は、M-Audio の 2チャンネルマイクプリアンプ 三台、Echo Digital Audio の 優れ物、8チャンネル firewire デジタライザー、Koss PortaPro ヘッドフォン4組と、M-Audio のアンプ付きスピーカーAV-40 が一対。

私達が「録音のお社」 と呼ぶ棚に設置したこのシステムのおかげで、基本の音質はずっと良くなり、以前は黙認するか取り除くしかなかったノイズを処理できるようになり、そしてついに長年の夢、楽器や歌をオーバーダビングすることが可能になった。

しかもこの新しい装備には、嬉しいおまけが付いて来た。 設定時間を短縮して、昔からのもう一つの夢、常にアンプを通して弾くことを実現してくれたのだ。 以前ならつまみやスライダーを 動かして変えたミキサーの設定が、今では保管したプロジェクトファイルの一部となった。 また録音した後でも音量その他を変えられるようになったので、演奏を始める前に設定を全て完璧にする煩わしさが無くなった。
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二度目の金欠に陥り、ブログを開設、
そして再び録音を始める

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私達の危惧は的中し、2009年に入って数ヶ月経つと、徐々に減りつつあった翻訳の仕事が皆無になる所まで来てしまった。

とうとう 2009年の8月、一向に来そうにも無い仕事を爪を噛みながら待つよりはと、マイクを取り出し、四年ぶりに初めて録音をした。 同時にWordPress プログラムにも思い切って挑戦し、新しく録音した音楽を掲載する為の ブログを開設した.....

Work In Progress Frozen mp3 ブログ では、CD制作が進むにつれ、音楽がどう成長し、私達がどんな心境だったかを日本語で読んで頂けます。 またプレーヤーをクリックすると、CD全曲のサンプルを完成した形で聴くことも出来ます。

直接音楽を提供することで、ブログが音楽界の門番を迂回する道を切り開くだろうと、私達は期待していた。 けれども数千人に及ぶ人達がウェブサイトに来てはくれたものの、楽器に関心のある人がほとんどで、私達の音楽を買う人は余りいなかった。

しかし今になって思うと、この試みの不成功は問題ではなく、 Work In Progress CDへと導く道を敷くことこそが、ブログを始めた本当の理由であった。

その当時、私達はまだ CD全体を録音するという、巨大な仕事に面と向かう覚悟が出来ていなかったから。

少ない貯蓄がやせ細って行くのをはらはら見守りながら、ブログを立ち上げ、新しい機器の使い方を習得しようと四苦八苦している間は、私達はひどく緊張していた。 そしてその後、25万語に及ぶ翻訳の仕事が押し寄せた時には、ただただ忙しかった。

けれどもブログに載せる音楽を一曲ずつ録音編集、それ位なら仕事の合間に何とか時間を見つけることが出来た...

ブログに掲載した曲はゆっくりと増え、或る日、自分でも知らない内に、新しい CD へ確実に辿り着ける所まで来ていることに気が付いた。
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Work In Progress, The CD

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Work In Progress CD の音楽を録音するのには約一年半かかった。

ブログに掲載した最初の曲、bbqq を2009年の8月 に録音編集したのが始まりで、2010年の末には、 やがてCDとなる全曲が、まだ荒削りの状態で既に手許にあった。

音楽面では心躍る時期、色々なことに初めて挑戦した時期だった。

最初のブログ記事、Heading Back Up the Mountain には、その頃の私達が、多重録音やオーバーダビングが何を意味するのか良く分からないまま、勇敢に体当たりした様子が書かれている。 Tracktion を使って最も単純な作業をするのにも、私達は苦心していた。 トラックの一部分を選択すると言った、極く基本的なことさえまだ謎であった。

また Dynasties Fall 、二番目のブログ記事は、自作の楽器を録音した上に言葉を歌う、初めての試みを記録している。 2001年、最初のCD huhnandhuhn の為にギターとドラムの伴奏で歌を録音したが、その時は自作の楽器を使わず、どちらかと言うと従来の音楽に近い歌のライブ録音だった。 それに比べ、Dynasties Fall の試みには己を信じて跳ぶ勇気が要った。

そして三つ目の記事、Creative Microphone Placement は、積み重ねた本、本立てと輪ゴムを使って、私達がどの様にマイクの設置を改善し、録音されるヒスノイズの量を減らしたかを述べている...

でもCDの進化を一曲毎に解説するのはこれ位にしておこう。 Work In Progress Frozen mp3 ブログに行けば 、日本語で要約した全ての記事が読めるから。

大事な点は、CDに現れる順に Wotk In Progress の録音を進める内、私達の音楽と録音技術の両方が成長し、それと並行して、社会と自分がそこに占める立場の理解が深まって、歌詞の要となる様々な洞察を私達に提供してくれたことだった。

ブログには、書き直せば自分達がもっと好く見える様な記事もあるが、その誘惑には負けないことにした。 その代り、記事はブログに掲載された時と全く同じままにして置いた。 素晴らしかった反面、混乱と怒りにも満ちたこの時期の記録として...
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ファイルに磨きをかける

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しかし私達の行く手には、まだ幾つか凸凹があった。 そして既にブログに掲載した、事実上完成しているとばかり思っていた曲を、改めてじっくり聴き始めた途端、最初で最大の障害に出会ったのだった。

一体どうしてあらゆる類のノイズを聞き逃し、ヒスだらけの長い部分に気付かなかったのだろう。 血の気が引く思いだった。 加えて音楽の流れが不自然な箇所や、バランスの問題、音の歪み等もあった...

もはや選択の余地は無い。 鉢巻をきりりと締めて、私達は仕事に取り掛かかった。

その時点で私達は、この編集作業がどれ程時間を取るか、個々の短いノイズを見つけては除き、ヒスノイズを満足できるまで抑えるのに五ヶ月近くも掛かるとは、知らなかった。

この頭が痺れるような大仕事は、d-essers や gateフィルター等のハイテクな解決策を使うよりも、手間暇かけてノイズを一つ一つ処理する方が、私達には良い結果が得られると分かった為、さらに面倒な作業となった。

これ程徹底した編集が可能だったのは、全ての作業を私達自身でやったからだ。 その結果、Work In Progress の制作に要した1000時間程の編集に払った犠牲は、バケツ何杯分ものコンピューター特有の不快な汗と、スクリーンに釘付けの長い日々だけだった。 スタジオ使用時間 とサウンドエンジニア に実際にお金を払わなけらばならなかったら、全く無理な話だっただろう。

ともあれ、私達は粘り強く続け、自分達にできると分かっている範囲では、どのファイルもこれと言って改良する余地が無い、と言う所までこぎ着けた。 その時に至って初めて、編集が 「終了した」 と見なして大丈夫と感じたのだった。 宋の朱子、明の王陽明に強く影響を受けた私達の世界観が、ここにも顔を出している。

もちろん、超自然的と言える位、音がきれいになるまで編集を続けるに当たっては、人生哲学とは余り関係ない理由もあった。 一つには、私達の音楽には、聴く人を別世界に連れて行く効果があるので、この摩訶不思議な清潔さが似合う。 だがそれに加え、私達は自分が音楽界の異端であることを痛いほど承知していた。 だから現状をあくまでも維持しようとする気難しい御仁達が、粗野で洗練されてない、プロらしくない等と、私達の音楽をこきおろしにくいようにしたかったのだ。

マスタリング

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2001年に初めてのCD を制作した時は、私達は最も簡単な道を選び、CDの複製をした自費出版請負タイプの業者にマスターもお願いした。 しかし2005年に Sweet Heresy を完成した頃には、もっと注意して聴くようになり、代りに地元で見つけたスタジオに、より音の良いマスターを作ってもらった。

そしてWork In Progress のマスターも、同じ地元のスタジオに頼んだが、おそらく私達の基準がまたもや飛躍したからか、自費出版ビジネスの場合と同じく、今回はこのスタジオが作ったマスターに満足できなかった。

そこ気持ちが落ち着くまで二、三日待ち、状況を見直した結果、マスタリングもまた、自分でしなければならない過程の一つ、と言う結論に達した。

A

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このCDの創作に当たっては、初めから終りまで、全てを自分自身でした。  楽器の制作と演奏。 音楽録音、編集とマスタリング。 CD カバーデザイン。 ウェブサイトを開設し、全ての文章を書いた。 この専門を絞らないアプローチは、普通のやり方ではないだろうが、私達には合うようだ。

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それまでは、マスタリングは魔法の如く音を豊かにする神秘的な技であると言う、一般的な見方を私達もしていた。 でも深く掘り下げて行く内に、実際のマスタリングは魔法でも何でもなく、要するに複製過程がその正確なコピーを量産できる様な、音質の良いオーディオCD を作ることに過ぎないと悟ったのだった。

2011年7月5日、必要事項を記入した書類と小切手、自家製マスター二枚の入った箱を丁寧に梱包し、決然と製造業者 に郵送した時、私達はWork In Progress 実現への最後の一歩を踏み終えたのだった。
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99パーセントの為の音楽

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その後、Work In Progressが、伝統に囚われない深遠な音楽を愛好すると自惚れる、極く少数の人達をはるかに超え、広い範囲の人々に聴いてもらえそうだと知って、私達はすっかり嬉しくなった。

ごく普通の、善良な人達にも愛されている。

2011年の秋、ひどくなる一方の収入・貧富の格差に抗議する人達が、ニューヨーク証券取引所のあるウォール街に近い公園を占拠した。 抗議に声を合わせる人々は瞬く間に増え、この運動はたちまち全米と世界に広がった。 法律が改正され、金融規制が緩和される度に得をする、最も富裕な1パーセントに対して、彼らは自分達を99パーセントと呼んだ。 以来、「99パーセント」は働く人々、裕福でない普通の人々の代名詞になった。

それは、私達がCDを贈った友人達、ニューメキシコ州タオスのスーパーや銀行、郵便局や自動車整備工場で働く人達からの感想が届き始めると、すぐに明らかになった。

生活の為に働き詰めに働き、音楽を聴きたくても時間が無いこの人達は、もし時間があれば、普通はヒスパニックロック(スペイン語のロック)、1960~1980年代のクラシックロック、クリスチャンロック、カントリー&ウエスタンや1950~1960年代のジャズなどを聴く。

彼らは私達の友人だから、何か好ましく 当たり障りの無いことを言うだろうとは思っていた (「努力の賜物だね」とか、「何かを完成させるのは満足の行くことでしょうね」とか…) 。 だが、予想に反して絶賛の波が押し寄せたのにはすっかり驚き、舞い上がる気持ちがした。

それまで私達のCDをどうしても好きになれなかった銀行の窓口係の女性は、Work In Progressが湯船に浸かってリラックスする時最も好んで聴く音楽になった、と打ち明けた。 郵便局の仕事の行き帰りに毎日車の中で聴く、と言う女の人もいた。 また、私達の人格も音楽も見くびりがちだった、スーパーのレジで働く気難しい女性は、満面の笑みでただ一言「最高」。 一方、自分の息子はライフル射撃の試合で順番を待つ間、Work In Progressを聴いて気を静めた、と同じスーパーのマネージャーが語った... 生花部で働く友人は、カーステレオからこのCDを失うのが辛くて、やはり私達の友人で、アイスクリームトラックを運転する旦那様に、いつまで経っても渡せないでいた... ラジオや電子製品を売るチェーンの支店長は、Work In Progressを聴いて、初めて地元アーティストのCDを店で売ってみようかと考え始めた、と言った... 食料品店の巨大な冷蔵庫に乳製品を収めていた青年は、仕事の手を止め、立ち上がり、私達と握手し、顔を輝かして「めっちゃすごい」...

年上の人達では、Work In Progress を聴いて胸のときめきを覚えたのか、70代後半の女性が二人、強く感覚に訴える音楽、と驚いた様子で語った。 また、ゆっくり慎重に自転車を乗り回す姿を街でよく見かける、高齢者向け住宅に住む80代のお洒落な男性が、急に私達に敬意を表すようになった。

さてどう考えても、地元のファン達は、非常に変わった音楽を好んで聴くだろうと見なされるタイプには属さない。 でも驚いたことに、この人達の少なくとも80パーセントがWork In Progressを、大好きなCDの地位にさっさと押し上げた。 そしてまだCDを聴いているかどうか尋ねると、ほとんどの人から「もちろん」と答えが返って来た。

彼らは、私達の音楽に特定の調や拍子がなくても気にならない。 似たような音楽を聴いたことがなくても、悩んだりしない。 あくまでゆっくりなテンポさえ不快とは感じず、仕事の後リラックスするのに便利だと思う。 正気を保つのに憩いの一時がどれ程大切か、彼らの誰もが知っているから。

その上、 Work In Progressを繰り返し聴いて、歌の内容が分かってくると、益々好きになる。 ある掃除婦の友人は、「あなた達は私達みんなの為に歌っている」とまで言ってくれた。

だから私達のマーケットは宏大だ。 世界中の99パーセントだから。
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私達は今

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2014年の秋、でっかい引越し用レンタルトラックに持ち物全てを積み込んで、私達はタオスを後にした。 ロッキーの山々と、親しくしていた、野性的で強く優しい地元の人々を離れるのは寂しかったが、振り出しに戻ってやり直す時が来ていた。

そしてマサチューセッツ州の、庶民的な町に落ち着いた。 人口は減少傾向、町は衰退する一方で、物知り顔の人達や金持ち相手の専門職などが努めて避ける所だ。

でも私達にはこの町が合うようだ。 ピッツフィールドの裏町のはずれに借りた家は、くたびれてはいるが、本来は立派な古い建物。 私達の流した汗が実を結んで、長年の間に積もり積もったごみやガラスの破片は片付き、雑草だらけの広い裏庭は街中のオアシスに生まれ変わった。 また私達が住む内に、家の中は、バウハウス風に飾り気のない、東洋の寺院を思わせる雰囲気の住処と化した。 清潔で手入れが行き届き、神秘と魔法に満ちたこの場所は私達を守ってくれる。 この家に住めて光栄に思う。

しかしこの新しい素敵な暮らしにも予期せぬ出来事があった。 中でも足元の地面が揺れる思いをしたのは、音楽に関わることだった。 音楽の閃きも、音楽すると必然だったしっとりとした安らぎも、自然で優雅な音色も、何処かへ消えてしまったのだ。

録音を始めた時、この痛ましい事実が明白になった...目に見えない壁にぶち当たった。 何をしても上手く行かない。 楽器の組み合わせを替え、マイクの設置を変え、オーバーダビングを試した。 午前中に録音、午後に録音。 でもどうあがいても、録音した音を聴くと、どれもせわしなく詰まらなかった。

私達は物事を理解するのがのろい方だから、頑固に4 ヶ月もその壁に頭をぶつけ続けた。 けれども、録音が余りにも惨めな結果に終わったある日、録音しなくても良いのだとようやく悟った。

私達は、想像をはるかにしのぐ音楽の道をもう25年間歩いて来た。 超一流のCDを録音し、真に新しい音楽を創ることがまだ可能であると証明し、一風変わった楽器の群れを発案して自らの手で作り、従来の音楽が何故行き詰まったのか、このウェブサイトで追及した。

この上、音楽の道からもっと成果を絞り出そうとするのは強慾だろう。 用心しないと、人生から喜びを追い払うような強慾。

実際、最近の録音に喜びが欠けていることを、私達の耳は既に気付いていた。 ぞっとした。 急に何もかもはっきりした。 以前なら自然に滑り込めた息の合った鼓動、あの至福の境地を見つけられなかったのも無理はない。 私達は緊張でコチコチになっていた。 今度こそ成功をもたらしてくれるCDを作ることに、こだわり過ぎていた。 私達の精神状態が、魔法を織り出すのに、全然相応しくなかったのだ。

結論は避けられなかった。 自分は「ミュージシャン」であるなどと言う態度を捨てなければ、掘った墓穴が深くなるだけだ。 並のCDを録音するのがせいぜいで、下手をすると音楽への愛を永遠に失うかも知れない。

それに今まで私達は、表向きのアイデンティティー無しで充分以上、達者に暮らして来た。 もし私達が周囲の期待通りに振る舞い、多くの人々がたどった道、世間一般に受け入れられる生き方へ至る道に留まっていたら、これほど変化に満ちた人生は、決して見つからなかっただろう。

あの壁に頭を下げたい。 私達が絶望へと向かう危険な曲がり角を曲がったことを、警告してくれたから。 良い子になろうと焦る余り、知らない内にこっそり現れた行き止まりの道を進んでいたことを。

ともあれ音楽から離れるのは意外と気楽で、余り苦痛も無かった。 数日の間は落ち着かない気持ちだった。 「じゃあ自分達は一体何なのだろう?」 でもその内、表情が和らいで、本当にしたいことをし、楽しむ為の時間が増えたのに気が付いた。 それに、やっと音楽以外のことを書く自由が手に入ったのだ。

もちろん、 Work In Progress を売る努力はこれからも続けて行く。 まず生活の為にお金が要る。 また少しでも似たような音楽は他に無いから、このCDには「賞味期限」が無い。 私達が今利用するスーパーの乳製品係の人は、「君達の音楽は時代を超える」と言った。 或いは、チェロキーインディアンの語り部の言葉を借りると、「世界はあなた達の音楽を必要としている」。

いつの日か、誰かが私達の音楽を見つけるだろう。 既にあるものとは違う音楽を探すのをあきらめた人々、「新しい」音楽に魔法を聴く望みを失った人々、喉から手が出るほど安らぎを求める人々、横になったまま惨めに眠れぬ夜を過ごす人々。 そんな人々が、世界には何十億といる。
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私達の思い違いだった。 音楽は死んだどころか、さらに不可思議、幽玄になってよみがえった。

このページを書き直すまで、録音について ページの終わり近く、“希望を失う” 以降に、私達の新しい現実のことを述べています。

 

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