Dynasties Fall
Dynasties Fall サンプル
完全版のファイルを買う
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私達は1992年から、一緒に音楽をしてきた。
ピアノに打ち込んだ長過ぎる年月を経て、光子はインド音楽ではヴァラナシ一番の声楽家からレッスンを受けていた。 私はハルモニアムをお供に、音階を歌う練習をしていた。
知人のほとんどが音楽に熱中していた、コンサートに通い、歌い、楽器を弾き...シタール、サランギ、ヴィーナ、タブラ、パカワジ、バンスリ、シェナイ...
中には楽器を作っている人もいて、私達が初めて笛をこしらえるのに何の不思議もなかった、友達の持っていた尺八を、ただ自分用にコピーしようとしただけ。
でもヴァラナシで手に入る、キメが粗く軽い竹でできた楽器は、音色も見かけも日本の笛のようではなく、やがて私達は、自分の楽器をしょきと呼び始めた。
その奔放な調律は、日本やインドや西洋の音楽にはまるで向かない、だが温かい豊かな低音と震える高音、繊細な囁きと頭蓋骨を揺さぶる轟き、音を捻じ曲げたり、音から音へ滑るように行ったり来たりできる、そんな笛に私達はすっかり魅せられた。
音の鋭い伝統的な尺八より味があり、昔たしなんだバンスリや金属製のフルートよりも吹いて楽しいしょき、一本だけでは足りなかった。
じきに私達は、全ての穴に指がやっと届くほど長いのや、光子がショルダーバッグに縫い付けた専用のポケットに収まるほど短いのを作り、次のシーズンが来る頃には人にあげたりもした。
何ヶ月も経たない内、今度はカリンバを作り始めたが、しょき同様、一番最初の作品も、私達が真似ようとしたココナツ殻の親指ピアノとは、ずいぶん違ったものになった。 そしてキイボード型カリンバ第一号「ベイサス」が完成した時、私達は親指ピアノを、両手のどの指でも弾ける、全く新しい楽器に変身させたのだった。
その後もコンサートに行き続け、光子はまだラーガを歌い、二人でする音楽は、たいていパカワジとインド製 “Givson”ギターのデュエットだった。
でも私達の焦点は変わりつつあった。 自作のしょきとカリンバに励まされて、自分自身の音楽に本気で取り組む意欲が湧いて来たのだ。 調律についての従来の考え方から自由で、厳格に数えるリズムに縛られない音楽。
しかし、そんな技術的な構造や規則のあれこれなしには、音楽が脈絡を失いがちだった。 そこで私達は、より神経を集中して聴き、面白い方へ向かっている時、敏感に気付くようにして、構造の不足を補った。
やがて、インド文化の見るに耐えない崩壊とそれに伴う手の付けようがない公害 ( 騒音、糞、ゴミ、人口、車...) に強いられて、シヴァの都でのささやかで貴重な生活を惜しみつつも、私達は逃げ出さざるを得なくなり、1998年、日本を少し試した後、アメリカに帰国した。
それでも二人で歩く音楽人生をインドで始めた私達は、何と幸運だったろう!
20世紀末のきらびやかなバブルと好景気の中で、誠実であり続けようと苦心し、おそらく失敗する代りに、私達の暮らしはより一層質素に、古風になって行った。
焼き直しのロックやジャズ、ラップの砲撃を浴びる代りに、私達は亡び行く偉大な伝統、インド古典音楽の尊い最後の音を聴くという、甘くも苦い恩恵にあずかった。
またインド最古の都市に住めたのは、この上ない幸運だった、あくまで頑固に保守的、レコードにぴったり収まるよう巧妙に制作されたラーガよりも、ドゥルパッドやバジャン、トゥムリを耳にしがちな場所。
...プジャの鐘の柔らかな響きや、聖なる河へ沐浴に行く信者の敬虔な祈り、時には千年前に道を間違えて、この哀しく薄っぺらな現代社会へ偶然迷い込んだ流しの楽人の摩訶不思議な音楽が、益々多くの寺院のスピーカーから轟くバリウッド風の似非賛歌と、まだバランスを保っていた場所。
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現代社会への帰郷
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私達は長年、弓で弾く弦楽器に興味があったが、これと言うものが見つからなかった。
インドでは、サランギーは、私達の耳には 余りに哀れっぽく聞こえ、共鳴弦が多すぎ、弾くのが苦痛すぎた。 またフレットのあるエスラージは駄目、弓で音を途切れずに弾き続けるなら、音と音の間を滑って行くのも魅力だったから。
西洋の楽器では、ヴァイオリンが強いるねじれた姿勢は、自ら災難を招いている気がしたし、チェロは床に座って弾けない。
望み通りの楽器を手に入れるには、自分で作るしかなさそうだった。
けれども、1998年に北カリフォルニアに移り住むまで、ボウアス族を実現可能にした、堅木を貼った薄いベニヤ板があることを、私達は知らなかった。
まだカルチャーショックから抜け切らず、月375ドルの家賃を借りた金で払う身には、そんな高価なものを丸一枚買うのは問題外だった。 ひるまず私達は、友人の大工を上手く説得してスクラップ材を譲り受け、実際に弾けるような楽器ができる確信には程遠いまま、仕事に取り掛かった。
絶え間ないストレス、全く経験の無い事ばかり、持てる技量の限界ぎりぎり、時にはそれを超える仕事、充分な道具も材料もなしに...しくじらなかったのは全く奇跡だ。
模型も詳細な図面もなく、どの工程でも、即興で自分なりに問題を解決するしかなかった。
二弦のドウターラの共鳴胴が、稜を削ぎ落としたピラミッド形になったのは、それが厚さ1/8インチベニヤの板切れで囲める最大の容量だったから。 骨組みに使う細い木材がなかったので、共鳴胴に使う板の内側に、縁に沿って、細長く切った1/4インチベニヤ板を糊付けすることで、接着面を大きくした。
旋盤がなかった為、弦を締めるねじを作るには、光子が階段に押し付けて支えるドリルに丸い木の棒を差し込み、回転する棒を、私が平たい金属やすりを使って先細りに削った。 出来上がったねじを入れる穴を開けるには、専用のドリルビットなしに、私が細い丸棒ヤスリで先細りの形にした。
また小さな留金と輪ゴムを工夫しなければ、特殊な角度の糊付けは不可能だった。
でも努力の甲斐はあった。
何十年経っても、ドウターラは完成した日のように、緩みなくしっかりしている。
真実不思議な代物、この可愛い楽器は今も私達を驚かせる、予想しないこと、できると私達が知りもしなかったことをやってみせる。 その奇妙で野生的な音で音楽することを強い、その音色に乗って、別の世界へいざなう、今も私達の師。
熟成した堅木ではなくベニヤ板で出来ていること、線も角度も全てまっすぐで、ごく小さな橋みたいに見えること、バウハウスの秀作のように幾何学的に優雅、私達の音楽のようにポスト・ポストモダン、そんなところが私達はすっかり気に入っている。
そしてドウターラが本箱や棚、机、洋服ダンスなど、私達がベニヤ板で作った素敵な家具達の従兄弟にあたること、骨組みに薄い壁を貼り付けた同じ設計であることは、私達の心をくすぐり、私達の仕事が深いレベルから来ていたのだろうと思わせる。
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最初のCDを録音
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人前で目立つことをするのは、光子も私も昔から決して好きではなかった。
大学で、演奏を人に聴かせなければならない時、彼女が真価を発揮することは稀だった。 私は大学院で、ティーチングアシスタントとして講義するのが大嫌いだった。
アッシーでは、音楽を学ぶ外国人の多くがパフォーマンスにやっきになっていたが、私達は自宅で自分達だけで音楽する方を好んだ。
誰か他の人がいると、無難にまとめ、易しいことばかりしているのが耳について、楽しめなかった。 我を忘れるふりをしているだけだと知っていて、それでは満足できなかった。
現代社会に戻ると、そんないんちきにますます納得が行かなくなった。 1990年代後半の止まる所を知らない物質主義の狂気は、既に見せかけだらけ、私達は本物を求め、魔法が欲しかった。
私達にとって、パフォーマンスは選択肢ではなかった。
そこで自分達の音楽を世に送り出そうと、2001年に初心者レベルの機器を買い、深呼吸一つ、自宅のトレーラーで私達最初の CD “huhnandhuhn” を録音した。
何をどうすれば良いのか全く分からず、最初の数週間は何らかの音を録音するだけに四苦八苦した。 その次は、録音できる基本のレパートリーが私達には無く、今まで行ったことのない所へ手探りで進んでいたから、50分の聴くに足る音楽を創り出すのに何ヶ月もかかった。
それを思うとCDの出来栄えは驚くべきもの、ホームランでなくとも、私達の耳には手堅い一塁打だった。 安堵のため息をつき、私達は天から花が降るのを、ぼつぼつ注文が来るのを夢見始めた...
今思い出すと、何と楽天的だったろう。
現実には、ほんの一つかみ売れただけ、そして何十枚ものCDを送ったにも関わらず、音楽界公認の門番達は、みんな私達を無視したのだった。 地元のラジオ局で二、三度放送されたが、レビューひとつ書かれずに終わった。
もちろん、ある意味で評論家や、DJ、著名な音楽家、教授達の拒絶は正しかった。 私達が送ったのは初めての試み、荒削りで音質もひどかった。 また、自作の楽器の可能性をかろうじて模索し始めたところで、その演奏はぎこちないものが多かった。 でもCDの大半は従来の音楽と大胆に違っていたから、真の新しさに飢えた世界では、それだけで十分のはずだった。 少なくともこれら「音楽愛好家」のお偉方の少数派が、私達を誠実な反対者として歓迎すべきだった。
憤った私達は、二倍も三倍も違ってやろうと、ギターとドラムを仕舞い込み、他の誰も持っていない楽器、私達が発明し自分の手で作った楽器だけを演奏すると誓った。
怒りからエネルギーを得て、きつい仕事が体を壊すことを予期せず、私達は長さ2メートル半の一弦楽器、ベイスボウアスを作ると言う、とてつもなく難しい仕事に身を投じた。
ボケナスどもに負けてたまるか。
けれども決して楽な時期ではなかった。
メンドシーノへの着陸を和らげてくれるだろうと、私が頼みにしていたヒッピー時代からの友達は、貧しさに疲れ果てるか、私達のような負け犬と関わるのは、面汚しだと感じるようだった。
優雅なトレーラーの我が家は家賃月400ドル、じめじめしてカビだらけ。 薪ストーブは排気が悪く、私達は常に漏れた煙を吸っていた。 光子が呼吸困難を訴え始めた。 インドで病気と栄養不良の為に失った体力を、私達は取り戻していなかった。
取るべき道は明らか、引越すか墜落か。
クォータスを制作、
次のCDを録音
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2003年、持ち物全てを U-Haul 最大のトラックに詰め込み、その後ろに800ドルで買った、くたびれた気高いフォルクスワーゲンゴルフを引っ張って、私達はタオスに到着した。
もはや落ち着く場を必死で探す難民ではない、目を瞠る自然美に心は躍る、ほとんど誰も知らない土地、七月に着いてすぐさま活動を開始した。
数週間の内に高山でハイキングを始め、間もなく居間から箱が消え、本棚はいっぱいになり、私達はベッドを作っていた。
翌年の一月には、私は外で雪に囲まれて、長年の夢だったクォータートーンカリンバのキイを作るために、鉄鋼棒をハンマーで叩いては光子に渡し、彼女が金やすりで形を整え滑らかにしていた。
六年ぶりに初めて打つキイ、私の腕はなまっていたし、ヴァラナシから持ち帰った、炭素を多く含む鉄鋼はものすごく硬かった。 コツが戻る前に、先を平たくし過ぎたり、ひびを入れてしまったものがいくつもあったから、手元にある限られた材料で、2オクターブの楽器に必要なキイが48本全部できるかどうか心配だった。
最終的に50本のキイが無事でき上がり、その後はボクサスクォータスの工作は速やかに進んだ。
残るはこいつをクォータートーンに調律するだけ。
ここで問題にぶち当たるだろうと思っていた。 ほとんどのカリンバキイが、工場生産の鉄鋼板を切って作られるのに対し、鉄鋼棒からハンマーで打ち出した私達のキイは、一様でない。 どの2本のキイも、幅、厚み、形が同じではなく、それぞれが独自の風変わりなブレンドの周波数で歌う。
そして、こんなキイとキイの間の微妙でごく小さな音程の違いを、光子が聞き取らなければならない。 悪夢になる可能性は十分。
ところがボクサスクォータスは、意外なほど鷹揚に調律を受け容れてくれた。 「クォータートーン」が全て正確に同じ音程でなくても構わないようだった。 むしろ楽器全体がどう響くか、キイとキイの間の音程が耳に快いか、光子が割り当てた長さでキイ達の機嫌が好く、唸ったりせずに、まろやかで豊かな音を歌ってくれるか、そんなことの方が大事だった。
この作業は、以前作ったキイ24本のカリンバを説得力のある半音階に調律するよりも、ずっと簡単だった。 当時は、私達が長年親しんだ従来の音楽が邪魔をして、正しくない音程は間違いに聞こえた。
ボクサスクォータスには、間違いと言うものが無いようだった。
今ではその理由が解る。 私達は精密な「クォータートーン」キイボードを作ろうとしていたのではなく、怪物じみた楽器をもう一つ、自分への贈り物にしたかったのだ。 音の美しい、弾いていて楽しい、そしてほぼ2オクターブの音域が48の微細な音程に配分された楽器を。
優しく不規則な音程は、私達を昔の習慣から守ってくれる、音を一つ置きに弾いても、標準の音階や和音にはなり得なかった。
考えてみると、それが私達の本当に望んでいたものだった。 耳にし学んだもの全てにうんざりして、従来の音楽が行き詰まっていると痛感していた私達は、そんな音楽を奏でようとしない楽器が欲しかったのだ。
鍵盤楽器のボクサスクォータス、弦楽器二つとしょき、これでやっと然るべき楽器のアンサンブルを手に入れた。
とうとう自分で作った楽器だけを弾いて録音できる。 二枚目のCD Sweet Heresyは、それが私達の進むべき道だと証明してくれた。
ギターとドラムが去り、私達の音楽は独自のものに成長していた。 自分が何をしているか分かっているように聞こえる。 音楽は無理強いではなく、自ずから違っている。
快い緊張に満ちた静寂に浮かぶ島の如く、音が一つまた一つ流れて行く、最も好い時は叙情的、聴く人を包み、内に染み込み、そっと落ち着かせる。
未知の領域へと手探りで進んでいたから、もちろんどの曲にも今なら取り除く箇所がある、それでも私達は Sweet Heresyを誇りに思う。
音質面でも大きく一歩前進した。 850ドルの家賃を光子の父からの援助で払っていながら、装備を新しくするのは正しいこととは思えず、代わりに、既にある物をより上手く使って、古い機器を輝かせた。 ハイ・ローパスフィルターが欲しいと叫ぶ強烈な轟きもあるし、私達の楽器の清らかな響きをもっと捉えなかったのは残念だが、スタジオ制作したCDの多くと比べても、よりクリーンで豊かな音になった。
完成したCD が詰まったいくつもの箱をUPSが届けた日には、早朝の空に虹が二重の弧を描いた。
何ヶ月も経たない内に、このCDはとても好意的なレビューを二つ受け取った。 Zeno は、彼の今や停滞してしまったブログで、もし我々の文明がこの終末を生き延びたら、その時音楽は 、私達の音楽のようになるだろうと推測した。 名だたる New Music Box の編集者 Frank Oteri は、私達のクォータートーンカリンバを自分も一つ欲しいと告白し、「そう思わない?」と問いかけた。
カリフォルニアとニューメキシコで、大きなラジオ局がその音楽をかけた。
CDをひと握りほど、売りさえした。
でもそれっきり、虫の声、沈黙。 彼ら以外の良い趣味の権威はみんな、又もや私達を無視し、ちらほらあった売上も干上がった。 私達は借金地獄に陥り、クレジットカードのキャッシングでお金を前借りして家賃を払い始めた。
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翻訳業という実り多い廻り道
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お金が底を突く寸前、私達が二人一緒に働けば、日本語のビジネス文書を英語に翻訳できることを発見し、後の数年間は、それで暮らしを支えた。
嫌で堪らなかった、ハイキングを失う、背中が痛む、目が焼ける、本を読む暇もない、けれども翻訳は、次のCDを録音するのに必要なコンピューターの知識と技能を私達に与えてくれた。
Word のあらゆる書式設定オプションに精通し、Excel や PowerPoint 等、厄介なプログラムに熟練することを強いられなかったら、 マルチトラック音声編集プログラムTraction 2の、私達に馴染みのないものの考え方やコマンドに面と向かった時、恐れをなして凍りつき、手も足も出なかっただろう。
果てしない退屈な文書を英語に翻訳することで、お尻と脳味噌にできたタコなしには、 Work in Progressに満足の行く磨きをかけ終わるずっと前に、「もうたくさん!」と叫んでいただろう。
二人がかりなので、必要に迫られて私達の翻訳の仕方は違っていた。 一人だけで翻訳する場合は、ややこしい所を見過ごせるが、私達は納得の行くまで、書き手が意図した意味を見つけるまで、格闘しなければならなかった。 話し合い、詳細を明確にし、お互いが相手を理解しなければならなかった。
日本語のフレーズを一つずつ、光子が意味を私に口頭で説明すると、それを私が苦心してまともな英語に書き直す。 「苦心する」のは、この二つの言語が世界を切り分けるやり方、何を重要と見なすかが違うから。 多くの日本文は主語や時制を特定しない、英語ならはっきり言うのが当たり前の「何時何処で誰が誰に何をした」を、日本語は必ずしも明確にしない。
私の最初の試みを読むと、光子はたいてい気に入らない。 「うーん、そう云う意味じゃないのよね」と言って、書き直しを提案する。 「でも、それじゃ英語にならない、これはどう?」と私は反論して書き始める。 難しいフレーズでは、私が意味を捉えたと光子が納得し、私が英語に満足するまで、何度もやり取りを繰り返す。
間もなくこの意味の追求は、翻訳を越えて広がった。 自分の文章でも、最初の書き方には何か正しくない所がよくあること、進もうとする方向が分からないまま、ただ言葉をだらだら連ねているだけだったことに、気付き始めた。 やがて今度は、句や節、接続詞がやたらにある文が、警報を鳴らすようになった。 「自分は何を言おうとしているのか?」と問うことが、私達が書くもの全てについて、絶対に欠かせないステップとなった。
言葉に対してどこまでも厳しいこの態度が、自分自身の著作を研ぎ澄ましたことは、私達独特の二人がかりの翻訳法が生んだ、予期せぬ素敵な成果であった。
私達の音楽、特に今している驚くべき音楽に関わってくるのは、近頃この同じ意味へのこだわりが、二人で話す時の聞き方にまで、どのように影響し始めたか。
私達の緊密さは桁違い。 今世紀になってから離れ離れになったのは最長3時間、お互いが好きで、コミュニケーションの良さは並たいていではない。
それでも、いつもお互いを正しく理解してはいないことに、気付き始めた。 一方が “writing” と言ったのに、他方は “riding” と聞く。 相手がその日の早い時間のことを話していると一方が思った時、実際は二人とも先週のことを話していた。 表現が曖昧だったり、口ごもって発音がはっきりしないと、“Google オートコンプリート” が起動して、こう言ったのだろうと思った通りに聞いてしまう。
最初はぎょっとしたが、やがて笑って済ませるようになり、じきにたいていの誤解には気が付いて、厄介事に発展する前に勘違いの原因を突き止めるようになった。
ただ聞き方が上手くなるよりも不可思議、ただ間違いに注意深くなる以上の何か、お互いを分かり合おうとするたゆまぬ努力が私達を調律し、二人の心を隔てる壁が薄くなって行った。
募っていく親密さは、音楽にも感じられた。 メロディもリズムも調もなしに、どうやって私達の息が合うのかは、ずっと謎だった。 さて今二人で奏でる音楽は余りに自由奔放で、こんな音楽用語は滑稽なほど的外れ、それなのに私達の息は前にも増して、しっくりと合っている。
翻訳は、ただ私達がより上手く録音する準備をしたばかりではなかった。 二人の不思議な緊密さを増すことで、より繊細にお互いに耳を澄ませるように導くことで、最後の大きな仕事から5年を経た後も、私達が理論上可能な域を超えるのを助けている。
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Work In Progress を録音
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Work In Progress の音楽を一曲ずつ大まかに編集し終えると、私達はそのmp3ファイルをブログに投稿し、相応しいと思う言葉を書き添えた。
録音を始めた頃の戸惑いだらけの努力も、音楽や人生についての思いも、みんなブログにある。 自分達がどのように、古い友人達とは正反対の方向にすごい勢いで進んでいるか、私達の歌の哀しく怒りに満ちた言葉の背景にある洞察も、ブログのあちこちに顔を出す。
かなり身構えた態度で、時には挑むほど正直に書かれたその言葉の中には、今なら違う言い方をするだろうと思うものもある、けれどもそれは、当時の私達にできる限り真実であり、今なお信じることでもある。
だからブログはこのサイトにまだ残っている、一言も変えず、発表した時のまま凍結して。
大きな翻訳の仕事に中断を余儀なくされ、今度こそはプロ級の音質を録音すると固く心に決め、慣れ親しもうとする二台目のクォータートーンカリンバがあり、曲ごとに音楽はより神秘的、自信に満ち、成熟し...満足できるまで丸2年かかった。
自分のためにする仕事、一生懸命だった。 「録音のお社」に収まった新しい機器を駆使して、私達は複雑きわまる多重録音に飛び込み、録音した音がすっかりきれいになるまで磨き上げ、さらに、轟く響きや厄介なヒスを手なづける、ヴォーカルの破裂音や指の出した唸りを取り除く、それぞれの楽器や声の音色と音量を個別に微調整することを学んだ。
情け容赦なかった、私達にとっては驚異の装置もベストにはほど遠く、編集にとてつもなく手間をかけなければならなかった。 二度と同じやり方はしない。
それでも1,258ドル払った甲斐は十分あった。 最初の大雑把な編集から仕上げまで、800時間以上かかったが、スタジオでそれほど時間を取ったなら、私達が一年生活するのにかかる費用の三倍はしただろう。
プロに制作を依頼したマスターがくず同然と判明した時にも、新しい機器は私達を救ってくれた。
受賞歴のあるスタジオが、 どの曲も冒頭と末尾のフェードイン・アウトをめちゃめちゃにし、私達のWAVファイルには無かったノイズを加え、規定のフィルターを使って響きを剥ぎ取り、音楽を骨抜きにしたのだ。 私達苦心の編集に対する侮辱だった。
深く掘り下げてみると、マスタリングが謳う様なことはほとんど、私達が既に自分の装置でやり終えていたのだと分かった。 音楽は文句なしにクリーン、曲は全て同レベルのボリュームに調整済み、フェードは私達が望む通り。
最後のステップ、 その音楽を オーディオCDに焼き付けるのは、ごく小さな無料プログラムがやってくれた。 2011年の7月、ついに私達は、自分で作った新しいマスターを複製してもらうため、業者に郵送した。
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Work In Progress の音楽
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今 Work In Progress を聴くと、感無量になる。 あれが私達? 本当に私達があの音楽を?
余りにも違う音楽だから、既存のどのジャンルにもすんなり収まらない。
ミニマリスト、コンセプチュアル、ミュージック・コンクレートではない、調性/無調/12音音楽でもなく、アンビエントや、エレクトロ・アコースティック、サウンディングズでもなく、ビバップでも、フリージャズでも、エスニックでも、フュージョンでも、サイケデリックでも、ニューエイジでも、スペースミュージックでも、ラップでもない...
ひそかに過激だが、斬新と普通呼ばれるような音楽を特徴付ける性質は、持ち合わせない。
荒っぽい、実験的、やかましい、不協和のいずれでもなく、故意又は偶然に調子外れでないと同時にキイにも依らない、耳障り、甲高い、繊細な苦悩に溺れた音楽でもなければ、世の中をおぞましく粗野で機械的、不公平と感じる気持ちを反映した音楽でもない。
極めてクリーン、洗練された、優雅な音楽なので、特に新しくも聞こえない。 揺るがぬ自信にあふれ、むしろ長い伝統に支えられた作品、何世代もかけて実った成果のように聞こえる。
平和で安らか、深く落ち着いた、異世界へといざなう、時間を止め永遠を垣間見せる。
けれどもこのCDを制作した頃の私達が、怒りに焼き尽くされ、疲れ果て、不安におののき、次々と友人を失っていたことを思うと、自分でもつじつまが合わないと思う。
でもどこから来たにせよ、現にある。 音楽のマニフェストでもなければ、将来改善されるべき、初めての試みでもない。 そのままで、ほぼ完璧。
このページに流れている音楽。
そして録音を終えた私達には、何も残っていなかった。 あの音楽独特の、ほとばしる創造性の流れは務めを果たして涸れ上がった。
必死で頑張ったのは、一体何のため?
Frank Oteri は今度もCD評を書いた。 「私自身は彼らの作品の大ファンである」と言う彼の声は唯一の支持だったが、それも一枚のCDさえ売ってはくれなかった。
Work in Progress は光り輝いていたが、何も変わりはなかった。
タオスで暮らす夢を諦め、お金のかからないお洒落でない所へ移る時が来ていた。 まともな暖房があり、雨漏りせず、飲水がじわじわと命を縮めない家が、私達にも手が届くような所。 金持ちに囲まれた貧乏人の立場と、きれいさっぱりおさらばしたかった私達は、2014年になって、やっと引越しを実現した時には、脱出できてほっとした。
でも8年経った今、苦い思いは消え去り、タオスの思い出は黄金のみ。
録音を進めるにつれて、大胆で優美な音楽に自分でも目を瞠った。 洋服ダンス、ベッド、三つの全く違う本棚、素晴らしいクォータートーンカリンバを二台作り、百万に迫る日本語を英語に翻訳し、数え切れない優雅なご飯を作り...
太ももまで来る深い雪を漕ぎ、魅惑の森を抜け、曲がりくねった長い稜線を歩いて3600メートルまでハイキング。 窓のすぐ外では、マグパイがひな達に飛び方のレッスン。 我が家のドライブウェイで、大鹿が泥に残した、皿ほどもある巨大な足跡。
タオス山の麓、星明りに夜が煌めく。 自分が誰であり、誰でないのかを見つめながら。
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99パーセントの為の音楽
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褐色の肌、鋭い頭、この町を活かし続ける地元の人々は、私達の音楽について一つ大きなことを教えてくれた。
私達が言っているのは、何時間も働き詰めに働き、音楽を聴きたくても時間が無い人達、もしさっと耳に入れる時間があれば、ヒスパニックロック、クラシックロック、クリスチャンロック、カントリー&ウエスタンや1950~60年代のジャズを好む人達のこと。
スーパーや車の整備工場、銀行、郵便局で働く人々、アルファルファを育て、薪を自分で切り、自ら撃った大鹿を食べる人々。
まだ半分未開人だからかも知れない、誰もが本物の紳士淑女だった。 彼らにWork In Progress CD をあげた時、たとえ気に入らなくても思いやりのある言葉を見つけてくれると私達は信じ、「努力の賜物だね」とか、「何かを完成させるのは満足の行くことでしょうね」みたいな反応を予期していた。
ところが、彼らからほとんど例外なく押し寄せた絶賛の波に、私達は言葉もなかった。
それまで私達のCDをどうしても好きになれなかった銀行の窓口係の女性は、Work In Progress が湯船に浸かってリラックスするための音楽になった、と話した。 郵便局でカウンター業務をする繊細な女の人は、毎日通勤中の車で聴く、と言った。
私達の人格も音楽も見くびりがちだった、レジ係の気難しい女性は、満面の笑みでただ一言「最高」。 生花部で働く女の子は、カーステレオからこのCDを失うのが辛くて、やはり私達の友人で、アイスクリームトラックを運転する旦那様にまだ渡せない、と打ち明けた。 乳製品担当の青年は、一番下の棚に商品を収める手を止め、立ち上がり、私達と握手し、顔を輝かせて「めっちゃすごい」。
スーパーのアシスタントマネージャーは、自分の息子がライフル射撃の試合で順番を待つ間、Work In Progressを聴いて気を静めた、と語った。 ラジオや電子製品を売るチェーンの支店主は、Work In Progressが、地元アーティストのCDを売ったらどうかと考えさせた、と言った。
70代後半のしとやかな女性二人は、Work In Progress が胸をときめかせたかのように、強く感覚に訴える音楽、と恥ずかしげに認めた。 高齢者向け住宅に住み、街でゆっくり慎重に自転車を乗り回す80代のお洒落な男性が、急に私達に敬意を表すようになった。
上に挙げた地元のファン達は誰も、非常に変わった音楽を好んで聴くと見なされるタイプには属さないし、音楽について知っていると言う自負もない。 なのにその半分以上が、Work In Progress を大好きなCD のリストに含めたのだった。
何ヶ月も経って、まだCDを聴いているか尋ねると、ほとんど皆が「もちろん」と答えた。 私達の音楽に特定の調や拍子がなくても、彼らは気にしない、そんな考え方はしない。 腹の底では違うものに飢えているから、かつて聴いたことがない音楽は大歓迎、ゆっくりと安らかなのも、仕事の後リラックスするのに役立つと、さらに得点を加えた。
そして、 繰り返し聴いて歌の内容が分かってくると、益々彼らの気に入った。 ある掃除婦の友人は、「あなた方は私達みんなの為に歌っている」と言った。
タフで強い友人達は、私達の真の聴衆は誰か教えてくれた。 社会を支える普通の人々、人類の99%。
*
音楽が死んだと宣言する
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Work in Progress の後、私達の音楽は先細り、ついに消えてしまった。
音楽は、作品の制作が目的ですることになり果てた。 次のCDに備えて、と自分に言い聞かせた、練習しなければ、アンプを通した音で音楽を作らなければ。
けれどもマイクやケーブルの取り扱い、衣擦れの音の心配、床がきしまないように、努めて体を動かさない、ヘッドフォンを通して聴く、何もかも私達を自意識過剰にし、遊びだった音楽を仕事にしてしまった。
愛しい自作の楽器に触れることなく月日が流れた。
東部のピッツフィールドに引越した後、これが最後と、一か八かの録音を試みた。
でもどうあがいても、 どう楽器を組み合わせても、マイクをどう設置しても、午前中でも午後でも、録った音はみんな、せわしなく詰まらなかった。
四ヶ月経って、ようやく録音しなくても良いのだと悟った。 自分は「ミュージシャン」であるなどと言う態度を捨て、現実を受け入れ、私達の音楽は死んだと公に宣言する時が来ていた。
ふいに目からウロコが落ちた。 私達があの至福の境地を見つけられる筈が、自然に息の合った鼓動に滑り込める筈がなかった。 今度こそ成功をもたらしてくれるCDを録音することに、こだわり過ぎていた。 全く誤った精神状態で、魔法を織ろうとしたのだ。
人生は続かねばならないと自分を説得し、音楽と直接関わりのない方向にウェブサイトを広げ、ギターに戻ってみようとした。
それでも気持ちは暗かった。
そして今...
*
2020年のある午後、音楽恋しさに堪らなくなった私は、居間にドウターラを持ち込んで弾き出した。 すぐさま光子はボクサスクォータスの前にクッションを引き寄せ、キイを撫で始めた。 背を向け合い、2メートル半離れた私達の、アンプを使わない音は余りに静かで、かつてないほど耳を澄ませて聴かなければならなかった。
思い思いの世界に浸り、私は部屋の一隅に置いた木彫りの大きなガネッシュ像を、光子は反対側にある本棚に立てかけたシヴァの額を見つめる。
到底あり得ない音楽のやり方、うまく行く筈がない、でも音楽はやって来た。
この新しい音楽は着々と育ち続ける、ますます不可思議、根本から違う、より息が合い、自信に満ち、変化に富み。
「楽音」と呼ぶには複雑過ぎる音、思いがけなくても何故か問題にならない音、まとまりたい、ぴったり収まりたい、そんな音達が織りなす音楽。
合わせて言葉のない、ヴォーカブルを歌う。 アメリカンインディアンの喉歌ではなく、タブラやシタールの伝統的な口真似でもない、けれどもし誰かが聞いていたらとても歌う勇気のない音、型破りを超えていながら心地好く、喉に優しい音、楽器の演奏に構造を与え、豊かにする音。
どこまでも落ち着いた、これまでの私達を遥かに超える最も驚くべき音楽、流れ流れて、休む必要のない、休息そのものの音楽。
でも録音することはないかも知れない。 私達の機器にとって、この新しい音楽の、静かな音は柔らか過ぎ、大きな音はボリュームがあり過ぎ、音色はあまりにも複雑過ぎる。 一方、これらの音にふさわしい録音ができるような繊細な装置は、私達の住む処ではおそらく使い物にならないだろう。 列車、サイレン、絶えず行き交う車、叫び声、エンジンをかけたまま駐めたトラック、北と東に工事中の建物、15メートル先には忙しい商店街の四つ角...騒音の海。
こんな実用的な問題よりも大事なのは、25年の間、自分達の音楽を世に出そうとして、危うく殺すところだったこと。 急いで同じ過ちを冒す気はない。
私達が今している音楽は開けっ広げ、無邪気、怖れを知らない。 楽園を追われる前の音楽、私達が三十年かけて育てた果てに行き着いたもの、他に誰もいないからこそ、それが可能だった。 もし録音しようとしたら、今の私達の苦しい状態では、またもや他の人にどう聞こえるか考え始め、物笑いの種になりそうなことをしていないか、ぎこちなく聞こえないか心配するだろう。 固くなり過ぎて、魔法を失うだろう。
だから、私達がそう度々起こりそうにないこと、根底から違う、しかも平和で洗練された音楽を奏でていると分かってはいるものの、今のところは自分のためだけ。
もちろん、 Work In Progress を売る努力はこれからも続けて行く。 ほんの少しでも似通った音楽は他に無いから、「賞味期限」も無い。 スーパーで働く友人が言うには、「君達の音楽は時を超える」。 或いは、アメリカンインディアンの語り部の言葉を借りると、「世界はあなた達の音楽を必要としている」。
その日まで、自作の楽器をまた弾いていると言うだけで、心が躍る。
インドでのように、ヘッドフォンもなし、アンプもなし。
小さなお馬鹿さん、二人ぼっち、魔法の国をさまよう。
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