路の楽人

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何もかも実際に起こった通りに、この話は始まる。 ダニエル教授が登場する所からはアーサーの創作で、この不思議な楽人との出会いが、私達の音楽人生にどれ程大きな影響を与え続けているかを語る。

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静かにゆったりと、しわがれ声が路から漂う。 と、現実と信じるには余りにも美しい何かに出会った時、人が流さずにはいられない、そんな涙が私達の目からあふれ出した。

インドは聖なる都ヴァラナシの、外の暑さは全く耐え難かった。 染みだらけのコンクリート家屋の影では牛が身を寄せ合い、犬は吠えるのも辛いと惨めに喘ぎ、私達と言えば、ただ生き延びる以外何の目的も無く、アパートの表に面した部屋で休んでいた。

何が待ち受けているのか分からないまま、私達は涙を拭いもせずに木製の雨戸の隙間から外を覗いた。 ベランダの下、路に一人の若者が立っていた。 まるで千年前に道を間違えて、偶然この二十世紀に迷い込んだような姿。

どうしてこんな印象を受けたのだろう。 小さな端ぎれを丁寧に縫い合わせ、非の打ち所無く仕立てた彼の着物のせいかも知れない。 私達の時代とは違う、ごく小さな布切れさえ無駄にはできない時代に作られたとしか思えないような。

それとも、若者を包んでいた静けさ、彼の音楽を縁取り、近くの混雑した通りから聞こえる車の騒音すら遠ざけてしまう、機械万能時代以前の静寂だったのかも知れない。

理由はどうであれ、近所の人達もこの楽人には何か違うところがあると思ったらしい。 私達の目の前で次々と扉が開き、人が現れては、お菓子やヨーグルトやチャパティを彼に捧げたから。 中には聖者にするように、花輪を捧げた者もいた。

流しの芸人がこれ程丁重な扱いを受けるのを、私達は見たことが無かった。 普通なら、無視されるか、追い払われるか、せいぜい一つかみかそこらの安い米で買収されるのが落ちだった。

涙を流れるに任せて見つめる内、若者は皆からほんの少しずつ捧げ物を受け取ると、角を曲がって消えてしまった。

その夕方、河畔のチャイ屋は音楽を学ぶ人々で混み合っていた。

「不気味だった」、ダニエル教授は熱っぽく手を振り回した。 タブラ流に口でリズムを歌い、指先で拍子を取る。 「どんなリズムでも数えられるこの俺が、何度やっても途中で分からなくなった...ゆっくりだったから易しい筈なのに、どうしても頭に入らない...」

「今日この辺を流してた、あの男のことかい?」

ダニエルは顔を上げ、木のベンチに残った二人分のスペースを私達に身振りで示した。 「そうさ、あいつだよ。 君達も聞いたのか?」

「聞くも何も、すっかり泣かされたよ。」 注文を待たず、ムンナはさっそくチャイの入ったカップを二つ、私達に差し出した。 「だけど、あの音楽を数えるなんて無駄骨だよ...」

ダニエルは何も言わずに、甘いミルクティーを長い間見つめていた。

やがて、慎重に一言一言、レッスンで教わったことを繰り返す様に「拍子を取れないならリズムが無い、リズムが無ければ音楽ではない。」 だが彼の言葉の端々に“?” を聞いたのは私だけだろうか。 驚いた。 自分は常に正しいと確信しているダニエルが? 訳もなく誰もが彼を「教授」と呼びはしない。

「だからどうだって言うんだ? 俺には音楽と聞こえたよ。 数える数えないは君の問題だろう? 原始人は数えられなかったけれど、音楽したんだぜ。」

反撃に出るだろうと思ったが、ダニエルは素焼きのカップで手を温めながら、ただ黙って何かを考えていた。

「そうかも知れない...でもあれが音楽なら、今までに聞いた何よりも不思議な音楽だ...」 消え入りそうな震え声で、「あんなに揺さぶられたのは初めてだ。 俺は涙を流しながら数えていたんだ。」

肝心な点はこれらしい。 あの楽人を聞いた誰もが泣いた。

黄昏が色褪せるにつれ、街は怪しいまでに静まり返った。 たまに車がゆっくり通り過ぎ、寺院の鐘やゴム草履の足音が時折聞こえるばかり。 床には蚊取り線香が燃え、天井の扇風機が重い湿った空気をのろのろとかき回す。 私達は汗だくで布団に横たわり、嵐を待ちわびていた。

「...楽園から追われる前の音楽、人間が動物と話せた頃、禁断のピアノをまだ弾かなかった頃、調子が合う合わないの違いを知る前、そんな時代の音楽...」

声楽の生徒が語る創世記。 冗談めかしてはいるが、彼女は真剣だった。

私も同感だった。 「コンピューターで測定したら、調子外れと出るだろうな。 でも音楽には違いない、俺達を泣かせる力のある音楽...」

「何を学んでも、何を聞いてもピンと来ないのに、あの音楽には人を動かす力があった」、彼女は深いため息をついた。 「満足するコンサートがいつだったか、思い出せないわ。 ここに来たばかりの頃は、歌もシタールもタブラもすごいと思ったのに、今ではシルクのドーティをまとった太っちょがインド音楽の振りをするだけ。 本当に出来る人はもういない。 何かがひどく狂ってしまった。 ミュージシャンは誰も彼も、あんなに不甲斐ないのか...」

「...それとも音楽のやり方に何か問題があるのか...」と、私が引き継いだ。 「それが彼のメッセージかも知れないな。 拍子を数えたり正しく調律したりじゃなくて、魔法を編み出すことが音楽本来の姿だと。 天上の誰かが俺達に言おうとしてるのは...」

魔法や神秘が当たり前の、地球上で最も古い都ヴァラナシ、異なる世界の接点、死すべき運命の私達と永遠を分かつ壁が紗の如く薄い場所。 輪廻の苦しみから逃れる為に、敬虔なヒンドゥー教徒が最期を迎えに来る場所。

ふいに彼女は指を唇に当て、「シーッ... あの人よ!」

脈打つ弓、しわがれ声、あの楽人以外の何者でもあり得ない。 けれども前より軽く、前ほど耐え難い悲哀に満ちていない。 そして後で気付いたのだが、その時、私達は泣いてもいなかったし、奇跡が待ち構えていることも知らなかった。 間もなく彼は、再びベランダの下にやって来た。

灯りを点けずに私達はベランダの方へ忍びより、猿避けの格子を通して覗いた。 月光に照らされて静かに佇む楽人の、若いダンサーの様に反った背中、千年の歳月が深いシワを網の目に刻んだ顔。

私達と気付いて顔に笑みがよぎり、彼は弾き始めた。 初めは静かに、そして次第に大きく、やがて街中に響き渡るほどに...でも誰の耳にも届かず、通りに面したドアは閉じたまま...聞いているのは我らのみ。

私達が他所から来たと知っていたのか、彼は外国人の耳にも親しみ易いラーガ、長調に近く、音から音への進行もスムーズなもので始めた。 それから彼は、インド人が愛して止まない、短調風の旋法の間を踊って翔び回るラーガに移った。 やがて旋律は余りに難しく、複雑になり、もはや聴き分けることができなくなった。

それぞれのラーガの曲全体を、彼はほんの数回しか繰り返さない。 無理のない完璧な技巧を見せるにはそれで十分だった。 しかも大道芸人が使う、彼の粗末で貧弱な楽器は、最高級のコンサート用サーランギーよりも豊かな音色で歌った。 コントラバスの最低音よりも深く、ヴァイオリンの最高音よりも高く、ストラディバリウスよりも艶やかに...

いつの間にか、タブラが加わっていた。 歯切れ良く、怖ろしく正確な、アラ・ラッカも羨む軽いタッチ。 非の打ち所のないタブラ。 時にはただ伴奏に専念して、優雅で複雑極まる土台を築き、必ず楽人の弓と同時にサイクルの終わりに来る。 かと思うと、堅苦しい拍子から離れ、気違いじみた自由なリズムへ...19対13、24対23、ダニエル教授でさえ敢えて数えようとはしないだろう... この目に見えないタブラ奏者の手にかかると、何もかも呆気ないほど簡単に聞こえた。

何時間もたったのか、それともほんの一瞬にも満たない間の出来事だったのか、ついに音楽が止んだ。 できる筈のないことができると証明した後、心臓が幾つか打つ間、楽人は沈黙した。 そして彼は再びサーランギーに向かうと、不可思議な烈しさで、私達が初めて聞いたのと同じ、鯨が歌う様な音に滑り込んだ。

途端に私達は、甘く切ない、抑えようのない涙にまた溶け入り、何も見えなくなった。

涙が乾いて道が見えた頃には、彼はもういなかった。

けれども何年も経って現代社会に戻った時、音楽を諦めることから救ってくれたのは、この楽人だった。 あのたった一度の出会いがなければ、おそらく私達も、詰まらないけれど生活に不自由の無い、そこそこの成功に満足していただろう。 社会のエスカレーターから降りなかった利口な友人達のように。

でも彼がベランダの下で弾いた、あの夜を私達は忘れられない。

そして音楽を続ける力を与えたのは、人間にはとうてい不可能な超絶技巧ではない。 否、私達の涙を誘った、彼の素朴で気高い音楽だった。

真に魔法の音、彼の音楽は私達に向かって聖杯の如く光を放つ。 その為に、どんな風味であれ、従来の音楽に満足するように自分達を欺けなかったのだ。 たとえ美しくても、私達は音楽にそれ以上を望んだ。 魔法をかけ、涙と笑いをもたらすことを。

その神秘の力を探して、私達は何年も音楽界のあらゆる隅々を空しく突つき回った。 やがてそんな力を音楽に求めるなら、自分自身で創り出すしかないことが、はっきりした。 そこで無邪気と自信がないまぜの、向こう見ずな心意気を武器に、私達は未知へと飛び込んだ。

言うまでもなく、こんな姿勢で音楽する私達に、未だ成功は訪れていない。 影響力のある人達はことごとく私達の音楽を無視し続け、優雅な我が家は裏町にある。 それでもこの頃は、少なくともあの古えの魔法に近付いているような気がする。 弓で弾く、2メートル半もある弦楽器や自由に調律した巨大なカリンバ風の鍵盤楽器、こんな自作の楽器達の奏でる音楽が、時を止めることさえある。

あの楽人が今も私達の強い味方であると知っているのも、支えになる。

湿った熱い空気にインドを想う夏の夜、開け放した窓から聞こえる...遠く、かすかに、でも紛れもない彼の声、彼の弓。

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ゴヴィンダ