京都の方へ...
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根付けかキイホルダーほどの、チャコールグレーと赤のフォークリフト。 この小さなプラスチックの模型に目が留まる度、初めて父の会社を訪れた日を思い出す。
2017年5月、連休明けのどんより曇った朝、アーサーと私は清荒神駅から阪急電車に乗った。 終点の梅田まで40分、そこで京都線に乗り換える。 私の記憶通り一番ホームに留まっていた特急に、弾む心で早速乗り込み、席を取る。 京都線に乗るのは二十年ぶり、いやそれ以上かな。 阪神間で生まれ育った私には、京都は「ちょっと遠出」する所で、京都線に乗るだけでワクワクしたものだった。 今日の私は不安と緊張の塊。 父がついに私達を仕事場に招いてくれたのだ! 九十歳の父がまだフォークリフトを作るなんて本当だろうか? それでも電車が滑らかにホームを離れた時、私は夢見る女学生に戻っていた。
行き先は大阪と京都のちょうど中間にある高槻市。 ラッシュアワーを過ぎて、電車はあまり混んでいない。 私達の向かい側では若い女の子が二人、携帯電話を一心に見つめている。 都会の真ん中から少しずつ郊外へと移り変わる風景を眺めながら、30分後に高槻市駅に到着した。
売店の親切なお兄さんが教えてくれたとおりに、駅の南へ出て、バスの停留所を過ぎ、「城北通り」と看板が掛かった小路へ足を踏み入れた。 狭い道の両側に、美容室、ラーメン屋、焼き肉屋や飲み屋の小さな店が並ぶ、眠たげな商店街。 駅の北側に二つ並んだ高層ビルを電車から見た時は近代的な町だと思ったのに、南側には心なしか前世紀の気配が漂う。 学校や役所の建物、神社を過ぎて、城址(しろあと) 公園に着いた。
公園の入り口を守るのは、十六世紀の武将で高槻城主だった高山右近の十字架を掲げた像。 領地も財産も捨て、日本を追い出され、最後はマニラで客死する破目になってもキリスト教の信仰を貫いた高山右近って、どんな人だったろう...
鴨やアヒルが遊ぶ池を過ぎると、小さな梅林と古い民家が現れた。 江戸中期の商家を移転・復元した歴史民俗資料館だ。 その白壁と深い庇、暗い内部の、畳の広間や磨き抜かれた板の間が無言で歴史を語っていた。
外へ出ると、子供の声。 幼稚園が公園に引越したかと思う程の賑わいだ。 ジャングルジムに滑り台、ブランコやゴーカート、どこを見ても嬉しそうなちびっ子だらけ。 小学生の頃、時間を忘れて友達と遊んだ交通公園を思い出すなぁ。
公園の片隅ではゲートボールを楽しむ人達。 何十年も前、年を取っても屋外でできるゲームとして、ゲートボールが流行ったのは憶えているが、見かけるのは本当に久しぶり。 そのゲームが進行する広場の周りを、歩行器を使ってすたすた歩く女の人もいる。
ゴミもなく、手入れが行き届いた公園は、明らかに市民の憩いと活動の場となっている。 古い城下町だったからだろうか、この町にも公園にも、現代社会とは違う何かが息づいている。 何だかほっとした気持ちになって、木の根っこに座り、外出する時いつも持ち歩く食パンを頬ばる。
公園を出た後は住宅街をひたすら南へ。 静かな街中に、ここ二~三十年の間に建った趣きの、ごく普通だが綺麗な家がところ狭しと並ぶ。 小学校を横目に過ぎると突然、家一軒分の敷地よりも大きな野菜畑が現れた。 ネギや里芋や、元気そうな野菜があふれんばかり。 農業用水路に沿ってさらに南へ進む内、車の音が聞こえて来た。 府道14号線に違いない。
左に折れ、はやる心を抑えて府道に沿って歩く。 使ってない会社の土地を舗装した駐車場が現れ、Googleストリートビューで見たのと寸分違わぬ工場が見えてきた。 社名「中島運搬機」を一字ずつ書いた大きな白い板が五枚、工場の外壁に掛かっている。 工場の他に木造平屋の建物が二つ。 四つ角なので交通騒音がすごい。 電話で話す時、背景に車の音がしょっ中聞こえる訳だ。
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企業か博物館か?
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生まれて初めて見る、父の仕事場。 事務所らしき建物にあるドアの一つに近付き、ノックした。 返事が無い。 思い切って開けると、「いや、こっちこっち」と父の声がして別のドアが開き、事務所ではなく応接間へ、父は笑顔で私達を迎えてくれた。 玄関で靴をスリッパに履き替えて上がった部屋は、古家の湿った匂いがした。
テーブルと小さなソファ、三つある本棚にびっしり詰まった機械や電気関係の本。本は昭和半ば~後半か、もっと古いのもあるかも知れない。 それとも部屋の雰囲気が何もかも古めかしく感じさせるのだろうか。 壁の一つは、木枠に掛けた無数の製図が占める。 そして空いた壁の至る所に、父が集めた振り子時計。 大人の身長程もある、ゼンマイではなく重りで動く時計が一台、玄関を上がった所の床に置いてある。 アメリカから父の会社に電話すると、以前なら必ず、時計が次々と時を知らせる音が聞こえたのに、最近はぜんまいを巻くのが大変で、あの懐かしい音をほとんど聞かなくなった。
宝物がひしめき合う小さな応接間では、気を付けないとすぐ何かにぶつかりそうになる。 でも会社には父一人しかいないから、問題ないのだろう。
何時だったか、使ってないソロバンがあったら欲しいと電話で話したことがあった。 テーブルの上には、何の変哲もない五つ玉のソロバンが置いてある。 かつて会社で経理の人が使ったものだと言う父の背後で、誰もいない事務所の方から、玉をパチパチ弾く音がした。
また近年会社の歴史に興味を持ち始めた私の為に、会社や製品を紹介する資料も用意してくれていた。 これらの冊子もかなり前のものらしいが(最後の記述が1967年)、高品質の紙を使った会社案内、その冒頭で薄紙に手で書かれた社是「一流の品質、一流の信用、一流の製品」が、会社の意気込みを見せる。 前の社長さんの名前を線で消して、父の名前の判が押してある。 社長のご挨拶の中で「少数精鋭」と言う表現が目に留まった。 大量生産ではなく、顧客の必要に合う物を一つ一つ作って来たのだ。
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1905 (明治38)年、この会社は大阪で鉄工所として産声を上げた。 注文があれば、鉄鋼で作る物なら何でも、型がなければ型から作った。 1920年代に電気運搬車を製作し始めてからは、工場や鉱山、工事現場で使う機関車、牽引車、トラックの他、都市を走り回るバスも作り、1934年に蓄電池式フォークリフトの製作を開始した。
現場で長年の酷使に耐える高品質の製品を一つ一つ作るやり方で企業は伸び、運搬機部門は元の会社から独立した企業となった。 1930~50年代には栄えたが、その後大量生産でコストを下げるやり方が主流になると、一台ずつ大切に作る方針を捨てなかった中島運搬機は時代から取り残され、ビジネスは縮小して行った。
反面、中島の機械でないと駄目と言う顧客もあって、この小さな会社はそのお陰で生き延びて来た。 かつての上司や同僚は皆既に亡く、今では九十歳の父が唯一人、会社を守っている。 つまり社長であると同時に、技術者、設計家、職工、事務員、庭師でもある。
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そして五年前、昔車を納めた会社からどうしてもと頼まれて、断り切れずに作った30トン積みトラックの、引き伸ばした写真もくれた。 特別仕様の部品は下請けが作り、他は専門の企業から既製の部品を調達するものの、半年近くかけて父が一人で組み立てたこのトラックは、長年の肉体労働で痛めた体に大きな負担となり、健康を害する一因にもなっただろう。 でも、八十五歳にして自らの手で仕上げた機械が、遠くロサンジェルスの何処かで今も役に立っていることを、父は誇りに思っている。
そのトラックの製図から始まって、長さ1メートル近くある大きな製図をいくつも見せてくれた。 精密に描かれた製図は私にはまるで外国語で、無数の細かい情報が図の中に含まれていることに感心した以外、何も解らない。 父がCADを使って作り、プリンターで印刷した物もあれば、青い背景に白い線で描かれた昔の青写真もあった。
次は、暗い応接間からトイレの横を通って明るい事務所へ。 そこでも靴は履かずスリッパのまま。 広々としたスペースに金属製の事務机が十台ほど、ずらりと並ぶ。製図を印刷できる大きなプリンター、ファックス、コンピューター、書類棚、木枠に掛けた製図。 コンピューターが置いてある父の机の他は、長い間使われずにほこりが積もっている物も多いけれど、いかにも事務所らしい...
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...と思ったら、ここにも歴史があった。 手に持ってぶら下げて使う竿ばかりが壁に掛けてある。 小さいのは棒が30センチ位、大きいのは1メートル以上。 しかもインドで八百屋さんが使うので見慣れていた、棒の真ん中に支点があり、両端に皿が吊ってあるのではなく、皿は棒の一端にしかない。 皿に近い支点からその反対側に棒がずっと長く伸び、端に分銅を吊り下げるようになっている。 初めて見る変わった天秤計りに、アーサーも私も驚いた。 分銅は尺貫法によるもので、今では使えないとのこと。 明治か昭和か、一体どれ程昔のものだろう。
事務所より、博物館にいるみたいな気がしてきた。
タイムマシンで過去に舞い戻った様な会社の雰囲気に合わせたのか、事務所にあるコンピューターも古い。 CAD用の機械は何とWindows 3.1、インターネットに接続したノートパソコン(兄のお古)はxpを使っている。 三十年程前、PCが普及し始めた頃の父は、会社ではCADを導入し、家ではPCで線画のフォークリフトを描いてフォークを上げ下げしたり、トンボを飛ばせて孫に見せたりしていたが、今のコンピューターについては余り知らないらしい。 CADは使い慣れてるのがあるし、ネットはほとんど見ないからこれで充分だと、父は言う。
私達のウェブサイトに行ったものの、父は余り興味が無さそうだ。 じゃあ日本のアマゾンで最近のコンピューターを見せてあげようと思ったのに、つながらない。 ブラウザの設定を変えてみたり、四苦八苦したがどうしても行けない。 私達の不十分な知識で父のコンピューターを下手にいじって、使えなくなったら困るから、諦めて、お昼でも食べに行こうと思ったら...
外に出ると、父は私達を工場へ招き入れた。 石綿を含む灰色の波板が壁の工場は、長さ30メートル、幅14メートル程で、高さは三階建て位。 片隅に並ぶ、黄色いペンキを塗った車の一つに近付いた父は、「これ、昨日充電しといた」と言うと、九十歳とは思えない身軽さで足台にひらりと乗り、T字型のハンドルを動かし始めた。 前後左右、自由自在にフォークリフトを乗り回す父を、私達は呆気に取られて見るばかり。
次に父は車体の細い車に乗り換えたかと思うと、棚と棚の間の狭い通路にバックで入り込み、一番上の棚の高さまで、フォークと一緒にするする上って行った。 瞬く間の出来事に言葉も無い私達に、天井近くから父が満面の笑みを投げかける。 動きが素早いので棚にぶつかったら、とはらはらしたが、無用の心配だった。 七十年フォークリフトを作り続けて来た父には、手足の延長なのだろう。
やっと降りてきた父が、今度は工場にある道具類を見せてくれた。 重く分厚い鉄鋼を扱うだけあって、旋盤、ドリルプレスなどの動力機械は大きく、がっしりしている。 コンピューター制御になる以前の機械ばかりだから、金属を加工する時は、予め設定されたプログラムではなく、人間が手を使って制御する。 つまり大変な力と技術を要するが、腕の立つ職工の手にかかると、プログラム設定では到底できない精密な加工ができる、と父が誇らしく説明する。
ペンチやレンチと言った手道具も大きく、ずっしり重い。 アーサーは魅入られた様に工場を見回し、あれこれ触ったり撫でたりしては「こんなすごい道具は見たことが無い」と呟く。
あっ、父がいきなりガストーチに火を付けて、金属片に炎を当て始めた。 保護具もゴーグルも着けず、素手のまま。 危ないなぁ。 シューシュー言う音と共に閃光が走り火花が散る。 しばらくして炎と音が止み、父が私達に見せた金属片には、直径1センチ余りの焼き通した穴が開いていた。 私達の訪問を、父は心底喜んでいるらしい。
工場の奥のドアを出ると、外は来た時に見た駐車場だった。 工場を建てた当時は、将来建増しすることを考えに入れて土地を買ったそうだ。 でも、その後会社は大きくならず、建増しの可能性も無くなったので、舗装して月極駐車場として貸し出すことにした、と父が言う。
さて会社の見学が一通り終わって、昼ご飯を食べに行く次第となった。 来る道々、駅前の商店街を過ぎると住宅街で、レストランはおろか、店もほとんど見なかった。 府道沿いにそば屋が一軒あったが、あいにく「本日休業」。 近くのお弁当屋さんも考えたが、味の素が大量に入ってるだろうと思うと気が引ける。 近所に家族向きの回転寿司があるから行ってみようと父が言い、それで話が決まった。 外は今にも雨が降りそうな空模様。 父は杖の代わりに傘を持ち、私達は重いデイパックをそれぞれ背中に担いで歩き始めた。
府道を渡り、新幹線の高架をくぐる。 そう言えば、高槻を過ぎた辺りで、阪急電車から新幹線が見えるんだった。 今日も私達が高架に近づいた時、丸鼻が愛らしい昔の車両の代わりに、直線的で鋭い新幹線 が火花を散らして駆け抜けて行った。
父は傘を杖にもせず、さっさと私達の前を歩く。 傘を持つ方の肩が少し上がって、後ろ姿は左右均等ではない。 けれども数年前、父が杖無しには歩けなくなったと母から聞いたことを思うと、こちらがゆっくり歩いていたのでは遅れてしまう程颯爽と歩く父の姿は、嬉しい驚きであった。 400メートル近く歩いただろうか、“Round 1”とある大きな建物にたどり着き、足を踏み入れると...
ゴーッと体に響く轟音。 いきなり21世紀に逆戻りだ。 一体この物凄い騒音はどこから...
父は騒音を全く意に介さず、左手のガラス戸の方へ進む。 自動ドアを入ると、広い部屋に二人がけの椅子がテーブルをはさんで向かい合う形のブースがいっぱい。 椅子の片側に沿って壁が延々と続き、壁の上の軌道を食べ物を盛った小さな皿やお椀がとことこ進んで行く。 席を取ると、父は早速テーブル毎に付いているタッチスクリーンで、にぎりや巻き寿司を注文しているが、菜食の私達に食べられる物があるかしら。 画面のメニューを何度も見ながら、やっとうどんを注文した。 食べ物はともあれ、自ら選んで行くような所ではないから、中々面白い経験ではあった。
昼食を終え会社に戻る途中、父は道の向かい側にあるバス停を指差し、「そこが市バスのバス停。 京阪バスなら駅から何本もあるけど、バス停が遠いから、15分に1本しかないけど、市バスに乗るんや。」 その市バスの停留所からでも、会社まで優に100メートルはある。 去年の暮れに、運転免許を返納し車も売って、バスと阪急で通勤し始めた時は、父の仕事ももうお終いだと思った。 ( 父自身、会社を閉めるようなことを言っていた。) しかし頑固者で仕事が生き甲斐の父は、冬中バスと電車で片道2時間の道のりを通い続け、今年の二月から三月にかけての入院と手術の後も会社に戻った。 家からバス停までの数百メートルと合わせて往復歩くのだから、毎日かなりの距離を父は歩いている。 歩かねばならないから、歩けるようになったのだ。 九十歳にして。 すごいなぁ。
会社に戻ると、父はする事があるし、私達ももう帰る時刻。 父がくれた大事な資料は会社の名前が印刷された封筒に入れ、そろばんや、他にもらったものを二つのディパックに分けて納め、後は靴をはいて失礼するだけになった時、アーサーが玄関脇の本箱に飾ってあった古いカメラに目を留めた。 そこでまた父が、カメラやガラス製の大きなネガを本棚から取り出して見せてくれた。 今日は本当に初めて見るものばかり。
壊れやすいカメラとネガを無事に本箱に戻した父は、何かとても小さなものを取って、私の掌に載せた。 最後の贈り物はプラスティックの可愛いフォークリフト。 私達が来たことを父がどれほど嬉しく思ったか、その気持ちが小さなフォークリフトに込められている様で、思わず涙が出そうになった。 でもこんな幸せな機会に涙はふさわしくない。 ぐっとこらえて双方笑顔で別れた。
会社を辞して府道を歩き始めた途端、涙が溢れ出した。 父が私達を心から歓迎し楽しんでくれた喜び。 他に誰もいない会社で唯一人仕事を続ける父。 父がいなくなったら、もう注文に応じて手作りするフォークリフトは世の中から消え、大量生産された機械だけになる哀しみ。 こんな父を若い頃は知ろうともせず、今まで知らなかったことに対する苦い後悔。
でも遅くても来て良かった。 今だから、父も私達を受け入れてくれたのかも知れない。
小雨が降ったり止んだりの中、駅までの道を逆にたどり、また城址公園に来た。 子供達もゲートボールのグループもいなくなって、ひっそりとした公園の池の辺りで、何か道端に立っている。 片足だけで身じろぎもせず立っているのは、置物か生き物か。 近付いても逃げず、私達には一向に構わず黙って池を見つめながら片足立ちを続ける。 身長50センチはあり、白地に筆で刷いた様な黒い模様、くちばしは黄色く長い。 鷺の一種だろう。
街中の自然との思わぬ出会いを心に留め、無事駅まで戻った。 時間旅行はもうお終い。 ここでタイムマシンを降りて、現代社会に戻るのだ。 高槻って素敵な街だな。
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我が家へ帰って...
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十年振りの日本、涙と笑いにあふれた二週間はあっと言う間に過ぎ、五月半ばに私達はマサチューセッツ州西部の我が家に帰って来た。 本当に日本にいたのか、それとも夢だったのか? でも家を見回すと、日本から新しくやって来た物達が、本当だったんだよと言う。 日本を出発した朝、関空で飲んだ自動販売機のコーヒーの、日本語が書かれた渋い金と緑のアルミ缶。 黒檀の玉が黒々と威厳を放つそろばん。 裏に「岸本」と釘で引っ掻いてあるのは、使っていた社員の名前だろう。 本棚に他の小さな宝物と一緒に並ぶ、フォークリフトの模型。 見る度に、工場でフォークリフトに乗り、天井近くまで上がって行った父の姿がまざまざと蘇る。
大正生まれの父は、企業家と言うよりは、機械作りの職人として仕事に携わって来た。 「一流の品質、一流の信用、一流の製品」と社是に掲げるとおり、現場で長年の酷使に耐える高品質の製品を、九十歳の今も一つずつ大切に作りたいのだ。 大量生産でコストを下げ、修理と言っても大きな構成部品を取り替えるだけ、古くなったら捨てて新しく買い換える、現代社会で当たり前のやり方は全く性に合わない。 だから時代は父を横目に通り過ぎて行った。
回転寿司から会社へ戻る道々、父は周囲を見回して言った。 「昔はこの辺に町工場がたくさんあったけど、みんな無くなってしもた。」 たった一つ残った自分の会社と工場も、自分が逝けば消えてしまう。 それを父は知っている。 それでも良い、できる限り自分の仕事を続ける。 消えゆく文化の最後の光を灯し続けるカルチャーヒーローであることを、父は自覚していないだろうが、父の潔さと明るさにアーサーも私も心を打たれずにはいられなかった。 アーサーは父がカルマヨギだと言う。 そうかも知れない。 為すこと (カルマ) を信じて生きているのだから...
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お父ちゃん、すごい!
お父ちゃん、頑張って!
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