Quartus – Quartus
“Quartus – Quartus”
クォータス ー クォータス サンプル
完全版のファイルを買う
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人前で演奏しない私達が、自分の音楽を世に送り出すには、録音する以外に道はない。 これは常々分かっていた。
そして、自宅で独力でするしかないことも知っていた。 誰か他の人が居ると、固くなって無難にまとめ、音楽が魔法を失うから。
でも録音はただ夢のまま、愛するヴァラナシに別れを告げ、アメリカに帰国するまでは。
資金が尽きるのは時間の問題、古ぼけた小さなトレイラーで優雅な侘び住まい、私達は自分を失うまいと闘い、新しい人生を築こうと四苦八苦していた。
体だけは現代社会に戻ったものの、心はまだ電子よりも、炭やロウソクに安らぎを感じた。 録音については何も知らなかった。 コンデンサーとダイナミックマイクがどう違うかも、「サウンドカード」が何かも知らず、ミキサーを使ったこともなければ、音声ファイルを編集するどころか見たことさえなかった。
頭はすっかり混乱、祈る思いで、一銭も無駄にしないよう気を付けながら、2001年に私達は最初の装備、初心者レベルの2チャンネルデジタル機器を手に入れた。
私達がして来たことの多くと同様、これも「君子が恐れて踏み込まぬ所へ馬鹿は突き進む」タイプの行動だった。 でもこの機材の限られた能力を注意深く使って、私達は首尾よくCDを二つ制作した。
たいていの場合、自分なりのやり方を見つけるのを好む私達は、まず録音教室に通ったり、ハウツー本を読んだりはしなかった。 その代わりゆっくり慎重に進み、録音行程から学び、労を惜しまず努力した。
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幕開けは二つのCD
- Huhnandhuhn (2001)
Huhnandhuhnの制作に取り掛かった時、私達はCDを満たすだけの音楽が自分にあると確信するには程遠い状態だった。
初めに録ったものはどれもこれもお粗末だったが、驚きはしなかった。 自分が何をしているのか知らずに、神秘探求の旅に出たことは分かっていたし、一角獣がそう簡単に捕まらないことも承知していた。
そこでめげずに奮闘を続け、三ヶ月後には、好意的に受け止めてくれる友人達に聴いてもらえる位の音楽を録音し始めた。
二十年経ってHuhnandhuhn (私達二人のどちらも先に来ないことを強調する為に選んだ名前)を聴くと、感心もすれば恥ずかしくもなる。 歌は今でも悪くない、冒頭のしょきデュエットは音楽的に面白い、CD全てが無垢な誠実さにあふれている。 でも私達はやっとドウターラを弾けるようになったばかり、また総じて音質はひどい。
- Sweet Heresy (2005)
次のCD創作は、それほど苦痛ではなかった。
録音プロセス全般があまり怖くなくなり、機材は同じだったものの、私達の使い方が上達して、音質はHuhnandhuhnに比べると許容できるレベルに近い。
より重要なのは、キイボードカリンバ 二台と ベイスボウアスが楽団の仲間入りをして、私達の音楽が成長したこと。 インド製のギターとドラムは押し入れに仕舞い、初めて自作の楽器だけで録音した。
生では良く聴こえるが、録音すると冴えないものを避けるようにしたのも、役立った。
深く落ち着いた音楽、立派な二度目の挑戦だった。
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録音のお社
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2009年になると、私達の日本語から英語への翻訳業が崩壊する兆しを見せ始めたので、先の事を考えて録音装置を一新した。 また金欠に陥るのなら、せめてもう少し満足の行く装備が欲しかった。
そのお陰で三つ目のCDは「録音のお社」にしつらえた新しい機器で録音した。
下二段の仕切られたスペースにはマイクとケーブル、中段に M-audioの 2チャンネルマイクプリアンプが三台、上の棚には銀色の Echo Audiofire 8チャンネルデジタライザー、その上に吊るしたヘッドフォンは Koss PortaPro。
コンピューターは、使い慣れた Pentium 3 システムの寿命が尽きた時、翻訳を続けるために買ったXPクアッドコアマシンが、多重録音に充分なパワーを持っていた。 お金を節約してマイクは前からあったのを使った。 Echo デジタライザーに、長く使うほど私達の気に入ったプログラム、Tracktion 2 が付いて来たから、音楽ソフトは買わずに済んだ。
この更新全部にかかった費用は、たった1200ドル程度。
不可能を可能にしてくれたシステムにしては、決して悪くない。 歌をオーバーダビング、楽器のトラックを追加、楽器ごとに設置した二本のマイクを別々のトラックに録音。 音響工学に基づかない自作の楽器の不思議な響きを捉え、コントロールし、録音した音をきれいに修正。 こんな全てを可能にしてくれたシステム。
この素敵な装備で私達は三枚目のCDを制作した。
- Work In Progress (2011)
CDに取り掛かって間もなく、翻訳の仕事が雨あられと降り注ぎ、残りの録音作業は仕事の合間に詰め込まなければならなかった。 私達には心の平安も、練習する時間も無かった。
けれども当初から、収録した音楽は、以前と比べて技術的、芸術的に遥かに優れていた。 二台目のクォータートーンカリンバが完成していただけでなく、翻訳業と言う回り道が実を結んだのだ。 翻訳は私達をタフにし、集中力を高め、自分に厳しくし、二人のコミュニケーションをより密接にし、新しい機器を最大限使いこなすのに必要なコンピューター技能を与えてくれた。 プロ仕様には程遠い機材を使って、スタジオで制作した最高級のアルバムにも劣らない、クリーンでバランスの取れた、音質豊かなCDを録音する立場に私達を置いてくれた。
それでも、納得できる音楽がCDを満たすまで、18ヶ月を録音に費やした。 Work In Progress ブログ は恥ずかしいほど正直に、私達の奮闘ぶりを語っている。 新しい装置や日々の暮らしについて、また歌に関わる記事に書いた悲しい発見、古い友人達ともはや波長が合わなくなったことについて。
迷いの多い、混沌とした時期だったが、そこから生まれたのは珠のようなCDだった。
クリーン、静か、深く安らか
優雅、摩訶不思議、洗練された
大人の音楽
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ファイルを彫る
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彫刻家は時に、まだ刃を入れない大理石の塊から像を解放すると言う。 さて録音したままのファイルに美しい音楽が潜んでいると感じた時、私達がしたのも良く似たこと。 曲が解き放たれるまで、ファイルを彫り続けたのだ。
最初のCD二つは音と音の間、つまり無音の部分に刃を入れるしかなかった。 新しい多重録音システムではもっと自由が利いて、響きが残る所に切れ目を入れると必ず起こる“ポップ”ノイズを、極端に短いフェードイン・アウトが消してくれた。
私達の彫刻は、ぎこちない演奏、どう聞いても醜い音、ノイズだらけで救う価値のないものを、全て削除することから始まった。 それが済むとまたファイルを隈なく調べ、最初の編集には残ったが、まだ好ましくない部分を取り除いた。
着々と基準を上げ、より良い、さらに良いものを容赦無く削り取る。 何度も念入りにその音楽を通して聴き、 やがて一個の曲がまとまって、これでお終いと私達に知らせてくれるまで同じ作業を繰り返した。
こう書くと簡単そうだが、実際の編集プロセスはもっと複雑だった。
例えば、複数の楽器が鳴っている内、ただ一つに問題があるのなら、その楽器のトラック二つを削除して、他の楽器にカバーしてもらえば済んだ。 けれどもより深い問題、私達の演奏がまずい部分全体を取り除く場合は、単にそこからトラック全てを削除しただけでは解決しない。 音無しになった時間を埋めるために、切り取った部分の前と後ろのクリップを、くっ付ける必要があった。
ところが前後の音楽が違い過ぎると、流れが途切れてしっくりしない。
すると今度は、取り除こうとする部分の始めと終わりの位置を変えなければならない。 音楽が私達の編集した箇所を、何事もなかったように自然に流れる、そんな位置を見つけるまで、何度もやり直した。 その結果、残して置きたい音を渋々削除することになっても、仕方がなかった。
彫刻の締めくくりに、曲の冒頭と結びを創る。 切り取るだけで出来なければ、最後の手段として、クリップをいくつか動かした。
その頃には、初めに録音したものの大部分が捨て去られている。 Work In Progressでは、一時間の生の録音が最終的に5〜10分の完成した音楽になれば、私達は満足だった。
同様に、何を録音するかも計画しない。 楽譜も使わなければメロディーを探ることもしない。 あらかじめ決めたキイで即興もしない。 楽器を置いてマイクを設置、録音装置のスイッチを入れて、始めるだけ。 耳を澄まして聴く、素敵な音型に気が付く、変わった音を歓迎する、無我の境地に至る、リラックスする、余り長く興奮し過ぎないようにする...私達の音楽創りには、こんな事の方が、思考よりもずっと大切だ。
まず何かアイデアがあって、それを音にしようとするのではない。 私達が波に乗っていれば、どうなりたいかは音楽が教えてくれる。 乗りが良くなければ、どうしようもない。
また、サンプル音源やシンセサイザーで合成した音も一切使わない。 竹や木材や金属で作られた自作の楽器の限界は、我が家「秘伝のタレ」に欠かせない成分。 楽器にできる事できない事から、独自の音の宇宙が生まれ、そこから私達の音楽が育つ。 これらの音を使って音楽する人は他に誰もいない、その事実が私達の音楽をより一層違うものにしている。
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ファイルに磨きをかける
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新しい録音機器を備えるに当たっては、オーバーダビングを視野に入れていたが、使い始めて間もなく、以前は諦めるしかなかったノイズの処理もできることを発見した。 ノイズの問題は同時に録音したトラックの一、二本に集中しがちだから、徹底的に攻めても、編集の痕跡を他のトラックの音が隠してくれた。
それでも Work in Progress の音楽からノイズを取り除くのは、骨の折れる仕事だった。
九曲全部をブログに載せられる状態にまで持って行くと、私達は何ヶ月もの間、CDはもう完成したも同じと思い込んでいた。
とんだ見当違い。 まだヒスノイズがたっぷり残っていた。 初期の編集段階ですっかり聴き逃したヒスを消し去ることは、録音プロセス全体で最も厄介な、最も頭が痺れる作業となった。
簡単で手っ取り早い解決ができればと、ディエッサーや gateフィルター、イコライザーを試した...が、結果は音の破壊。 音を従順に生ぬるくし、その迫力と、思考を止め魔法をかける力を剥ぎ取った。
結局、一つ一つの音を聴いて音楽を綿密に調べ、音と音の静かな合間にあったヒスは、全て手間をかけて個別に取り除いた。
ヒスの他に、演奏中のノイズやバランスの問題、歪んだ音などの処理を加えると、 Work In progress を磨き上げる為に、私達は少なくとも800時間に及ぶ、汗だくの不快で惨めな時間をコンピューターに釘付けで過ごさざるを得なかった。
だが自分でする以外、選択の余地はなかった。 あれ程の量の作業には、安いスタジオでさえ十万ドルは請求しただろう。 私達の一年分の生活にかかる全費用の三倍を軽く超える、とんでもない額。
でも苦労の甲斐はあった。 私達の音楽が、聴く人をより平和で自由な世界に連れて行くには、あくまでクリーンでなければならなかったから。
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自分でマスタリング
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かつて私達はマスタリングを、技術的に難しい謎めいたプロセス、音楽を世に送り出す前に必要な、最後の仕上げみたいなもの、と思っていた。
ところが、受賞歴のあるスタジオエンジニアが、 どの曲もフェードイン・アウトはめちゃめちゃ、バランスは崩れ、音は骨抜き、その上ファイルには無かったポップだらけの Work In Progressマスターを作成した時、私達はこれもまた、自ら歩むしかない過程と悟ったのだった。
有り難いことに、マスタリングは機械的とも言える、楽で易しい作業だった。
実際、やり始めて間もなく私達は、マスタリングスタジオが宣伝する様なことはほとんど全て、丁寧な編集過程でやり終えていたのだと気付いた。 フェードは文句なし、ノイズは無くなり、曲どうしのボリュームはだいたい同じ。 また個々の歪んだピークを処理したために、プロが可能と言った限界を超えて、CD全体の音量を上げることができた。
最後に、 waveファイルをオーディオファイルへ変換し、それを CDに焼き付けるステップは、いくつかクリックするだけで、ごく小さな無料プログラムがやってくれた。
この経験を通して私達は、マスタリングは大したことではないと確信した。 自分の音楽を自力で録音・編集したミュージシャンなら、その作品を発表するための準備も、どんなスタジオよりずっと上手くできる。 自分でマスターを作れば、ミュージシャン自身が望むような音のCDになる、燃え尽きたスタジオエンジニアの先入観に合うものではなく。
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希望を失う
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Work In Progress を制作していて、私達はアンプの効いた楽器の音にすっかり惚れ込み、録音しない時でもアンプを通して弾けたら、と思い始めた。 けれどもこの夢は実現しなかった。
確かに Tracktion のテンプレートファイルを開くのは、以前のようにミキサーのスライダーをいじるより簡単だったが、マイク四本を扱う煩わしさに変わりはなかった。
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マイクを取り出し、ちょうど良い場所に置く、ケーブルを解いたり巻いたり...そんな作業が音楽の邪魔をした。 音楽から楽しみを奪い、堅苦しく、仕事みたいにしてしまった。
愛しい自作の楽器に触れることなく月日が流れた。 録音した音の豊かさに酔いしれた私達は、何がなんでもアンプを効かせた音で弾きたい、と頑なになった。
折も折、Work In Progress が飛躍し損なっていた頃。
気が滅入り、私達は音楽する意志を失った。
2017年に、最後の試み。 四ヶ月の間、もどかしい思いで楽器を取り出し、機材のスイッチを入れ、無理やり録音しようとしたが、どれもこれも Work In Progress に収録した音楽には遠く及ばない、詰まらないものばかり。
失望のどん底で、自分に言い聞かせた。 音楽が死んでも、人生は続かなければと。
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そして今...
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2020年のある午後、音楽恋しさに堪らなくなった私は、居間にドウターラを持ち込んで弾き出した。 すぐさま光子はボクサスクォータスの前に座り、キイを撫で始めた。
背を向け合い、2メートル半離れた私達の、アンプを使わない音は余りに静かで、かつてないほど耳を澄ませて聴かなければならなかった。
思い思いの世界に浸って、私は部屋の一隅に置いた木彫りのガネッシュ像を、光子は反対側にある本棚に立てかけたシヴァ神の額を見つめる。
到底あり得ない音楽のやり方、うまく行く筈がない、でも音楽はやって来た。
二年経った今も、この新しい音楽は成長を続ける、より大胆で不可思議、どこまでも違う音楽へと。
だが録音できるまでには、まだしばらく間があるだろう。
何よりもまず、もっと負担の軽い録音方法を考え出さなくては。 マイク四本は、余りにも面倒だ。
最高級コンデンサーマイクを楽器ごとに一本、1メートル離れた所に置けば、無視しやすいだろう。 それを充分品質の優れたプリアンプにつなげば、ヒスにおさらばできる。 ダイナミックマイクがピックアップを兼ねていなければ、響きが暴走して歪むことも無くなるだろう。
録音した後はファイルを彫刻し、弾く時に出したノイズを取り除けば、それでお終い。
そして願わくは、Work In Progress に収録したものとは深く違う音になって欲しい。 アンプなしで弾いている時、私達に聞こえる音に近い、ただそれより大きく。 部屋に響きわたるほどの、音が小さいと本物の音楽ではないと言う見方に染まった人達が満足できるボリューム。
運が良ければ、ドウターラやボクサスクォータスも自分らしい音になるかも知れない。 ベニヤ板とガット弦、炭素を多く含むインド製の鉄鋼から、単純な手工具で作った小さな楽器の音。
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でも、私達の思い描くスーパーシステムが実現するまでは、何もかも想像に過ぎない。 それが何年先のことかも。
今の私達にはとても手が届かないばかりか、そんな装備が力を発揮できるほどの静けさが、この落ちぶれた町にはない。
貨物列車、サイレン、絶えず行き交う車、叫び声、エンジンをかけたまま駐めたトラック、北と東側に工事中の建物、15メートル先には忙しい商店街の四つ角...私達は騒音の海に暮らしている。
それでも夢みることはできる。
そしてたいていは、不思議に希望を保ち続けている。 最後には Work In Progress が門番達の支持を勝ち取り、いつの日か、私達が別のもっと静かな家に住み、あの究極のシステムを買うお金があるだろうと。
その日まで、可愛い自作の楽器でまた音楽できることを、心から嬉しく思う。
もう一度、インドでしていたように、マイクもなし、ヘッドフォンもなし。
小さなお馬鹿さん、二人ぼっち、魔法の国をさまよう。
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