ゴヴィンダ

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gai butt galie*

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ヴァラナシに住んでいた時、神々はごく身近に生きていた。 今でも私達は彼らに話しかける。 神々が見守ってくれなかったら、この薄っぺらで味気ない現代社会で、私達はとうの昔に自分を見失っていただろう。

この話は実際にあったことを元に生まれた。 私達の人生を変え、心に生き続ける、不思議の国ヴァラナシの空気が少しでも伝われば...

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雨季が終わって一月余り、狂った竜さながらに暴れた聖なるガンジスは、いつもの河幅に戻り、素知らぬ顔で悠々と流れる。 水辺へ下って行く無数の石段は、洪水が残した何メートルもの粘土で覆われたままだ。 腰布を着けただけの男達が、生乾きの粘土を鍬で掘っては籠に入れ、いっぱいになった籠を頭に載せて運んで行く。 千年、それとももっと昔に、この同じ岸辺でやはり痩せた半裸の男達がしたように。

歩けば膝まで泥水に浸った街の通りからも水が引いた。 後に残ったぬるぬるの泥は、日に焼かれてひび割れ、人と動物に踏みしだかれ、風に吹かれて、大方どこかへ消えてしまった。

乾いた空気は厳しい暑さをずっとしのぎ易くする。 雨が降り出して以来初めて、食べ物が見ても食べても美味しい。 洪水の間、見かけるのは瓜ばかり、でもこれから冬にかけて、道端で店を広げる八百屋に色とりどりの野菜が並ぶ。 かぼちゃ、じゃが芋、人参、大根、トマト、茄子、ほうれん草、キャベツ、出始めは大人の握りこぶし、最盛期にはサッカーボールの大きさになるカリフラワー...

また一年、洪水と熱病の季節を何とか切り抜けた。 大昔から続く聖地ヴァラナシの人々は、雨季の終りを告げた悪夢の日々をすっかり忘れ、間もなく訪れる秋祭りの気分が街にあふれている。

動物達も、雨が恵みをもたらして去り、全てが元通りになってほっとした様子だ。 鹿を思わせる、すらりと優雅な牛達は、一日中ゆっくり気の向くまま路地を歩き回り、日が暮れると自分で飼い主のもとへ帰る。 河で水浴びする水牛達は、黒い大きな体をゆったりと力強い流れに沈め、鼻だけ出して満足そう。 ロバは小さな体に重い荷を担いでとことこ歩き、らくだは山積みの薪を楽々と運ぶ。 猿達も、雨を避けてわずかな隙間に縮こまる代わりに、家々の平たい屋根から屋根へ、嬉々として飛び回り、追いかけっこに余念が無い。

ある気怠い昼下がり、この物語は始まる。 半ば営業中のチャイ屋の主人は、使い古した日よけの下、細長い木のベンチで昼寝をむさぼる。 通りには車も力車もなく、人気の無い小路の奥深く、ラジオから映画のヒットソングが漂う。

猿達はたいてい日陰でまどろんだり、毛皮から虱を取り合ったりしているだろう。 でも変わり者の猿、ゴヴィンダはいつもの様に群れを離れて、たった独りでいる...

ティワリの家の屋上、交差点とガンジス河の間で一番高い所に座って、ゴヴィンダは河を眺めていた。 小僧達が真冬に凧を揚げに来る以外、ここまで人間が来ることはまずないから、猿が独りもの思いに耽っても、邪魔する奴もない。 ぼんやり見つめるゴヴィンダの目に、遥か向こう岸の木々や建物が小さく映る。 河面が波打ち、灰色の河イルカが弓なりに現れたと思うと、すぐ水中に消える。 水面はまた静かな鏡になった。

ゴヴィンダは目を細めて心の中で呟く。 長い弓なりの体、水しぶきが上がる、水面に輪がいくつも広がる... あぁ一度で良いからイルカになれたらなあ。 あの水の中には一体どんな不思議があるんだろう? あの奇妙な世界を俺の気が済むまで見たいもんだ。 これがゴヴィンダ長年の夢だった。

午後の日射しは背に暖かく、河から吹く乾いた風が毛先をくすぐって、ついうとうと...

バタン! 何だ? たちまち我に返って、音のした方を見下ろす。 一階下の屋上にサリーを着た女が現れ、水を満たしたプラスチックバケツの方へ歩いて行く。 女が持つステンレスの盆にトマトが三つ。 ゴヴィンダは大きなあくびを一つすると、階下の屋上を囲む低い壁までそっと降り、音を立てずに女の方へ歩き出した。 壁は幅10センチ余り、片側は地面まで真っ直ぐ落ちる15 mの絶壁、でも電線を苦もなく歩く猿には大通りと変わらない。

バケツの側にうずくまってトマトを洗う女は、ゴヴィンダに気が付かない。 洗い終えて立ち上がり、顔を上げると、手が届く所に猿の顔。 目と目が合う。 女の顔に困惑の表情が浮かぶ。 ゴヴィンダが口を開けて牙を見せる。 女は「きゃっ」と叫んで後ろへ跳び退き、その場に立ちすくんだ。 すかさずゴヴィンダはトマトを一つ口にくわえ、両手に一つずつ掴むと後足で駆け出す。 隣の屋上まで逃げて振り返り、にたりと笑う。 女がゴヴィンダに気付いてからわずか数秒。 女は無言で呆然と立ち尽くしたままだ。 叫び声を聞いて部屋から飛び出して来た男が、悔しそうに棒を振り回すが、時既に遅し。

猿よけの棒も持たずに、食い物を持ってのこのこ出て来るなんて、全く馬鹿にしてるぜ。 あんな奴はトマトを失くして当然だ。 盗むのが猿の掟というものさ。

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屋上をいくつも越えて逃げ、石を投げられる心配もなくなると、ゴヴィンダはゆうゆうとトマトにかぶりついた。 一つ、二つ、三つ... 喉を通り過ぎる甘酸っぱい味に、ゴヴィンダはラダを思った。 あぁラダ、おまえはこの味がたまらなく好きだった...つい昨日のことみたいだ、お前が俺をトマト好きにしたのも、いつも三つ盗むように俺に教えたのも...おまえと俺に一つずつ、そして偉大な猿、ハヌマン様に一つ...愚かな人間さえハヌマン様を崇めずにはいられないんだ...お前はすばしっこくて、俺よりずっと腕利きのこそ泥だった...あのしみったれの金持ち、チョウダリーの台所からトマトをくすねた時の、おまえの得意そうな顔...

ラダの思い出に浸りながら、ゴヴィンダは寝ぐらを探してのんびり彷徨い歩き、河から石段を上り切った所にあるシヴァ寺院の、ひっそりした片隅に落ち着いた。 日が沈む、お腹はいっぱい、ゴヴィンダは丸くなって眠りの国へと旅立つ。 でも欲張ってトマトを三つも食べたせいだろうか、その夜見た夢は突拍子もなく奇妙だった...

...例の如くたった一人で、ゴヴィンダはティワリの屋上に座っている。 いつにも増して不思議な安らかさに満ち、遥か下、夕暮れの雑踏で賑わう地上とはまるで別世界。 また扉の開く音が聞こえ、一階下の屋上にピンクと緑のサリーを着た女が現れた。 今度も棒は持っていない。 

「あの女、まだ懲りないのか? どこまで猿を馬鹿にすれば気が済むんだ! よぉし、もう一度からかってやるぞ...」 

こっそり忍び寄り、うずくまった女のすぐ上に来る。 いつでも牙を見せられるようにして、女が気付くのをじっと待つ。 女が顔を上げる...

「ラダ?!」 ゴヴィンダは跳び上がって叫んだ。 

「ラダ? お前?...」

ラダの厳しい目に、至極もっともな非難がこもる。 「ゴヴィンダの食いしん坊! せっかくトマトを三つ盗んだのに、ハヌマン様に捧げる分まで食べちゃって。 恥知らず!」 

「だって、俺は独りで...」 しどろもどろに答えるゴヴィンダの耳にも、この言い訳は説得力に欠ける。      

「独りですって? ティワリの屋上からずっとそばに居たのに、気が付かなかったの? フン!! あんたは全く我々猿族の面汚しだわ。 もう知らない!!」 

ラダは身を翻し、毛を逆立てると次の屋上へ飛び去った。

「ラダ、待てよ! 待てったら...」 ゴヴィンダもすぐ後を追ったが、ラダの姿はもう見えない。

ふいに辺りが虚ろになり、寺院から波と押し寄せる、耳をつんざく青銅の鐘の音...

「カァ~ン!、カァ~ン! 、カァ~ン!」

「ラダ、どこへ行っちまったんだ... 待て!待ってくれ!... 俺を待ってくれ!」

自分の叫び声に驚き、夢の名残りから逃れようともがく内、ゴヴィンダはようやく目が覚めた。

寺院という寺院から空気を震わせて響く鐘。 向こう岸に朝日の最初の閃き、やがて燃える光の円盤が姿を現した。 何もかも黄金に輝く朝。

頭が割れそうに痛み、涙と汗で全身ぐっしょり濡れている。 ラダを失った恐怖にまだ震えながら、ゴヴィンダは少しずつ自分を取り戻すと、ぼんやりした頭で夢のかけらを拾い集める。

艶やかな毛、暖かい琥珀の瞳。 群れの中の誰よりも身軽で、電線を踊って歩いたラダ... 二年前の雨季、まだ小さいゴパラはやっと自分で走り始めたところだった...あの呪われた日! 「お母さん、助けて!」 濡れたトタンの庇で滑ったゴパラが、叫びながら道へ落ちた... 稲妻みたいにお前は子供を追い、すぐ後に俺も地面に飛び降りた瞬間、それまで何処にも見えなかった車が! キィィィーィッ! どすんと鈍い音が二つ。 静寂... あぁ、ラダ! ゴパラ! 今でもはっきり見える! 頭に焼き付いて離れない! 俺も一緒にはねなかった車を殺してやりたかった。 気違いみたいになって、連れ合いと息子を一度に俺から奪ったハヌマン様を恨んだ。 あの頃の俺は泣いているか、群れの仲間にケンカを売るかだったから、とうとう仲間からも見放されて... もうお終いだと思った。 ハヌマン様のお慈悲と、ラクシュミの限りない愛がなかったら...

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神に捧げる花を売る、その花よりも清らかで美しいラクシュミ。 数多の人間の内で、お前だけが俺の名前を知っている、お前だけが俺の痛みを分かってくれた。 ラダとはまるで姉妹、小さいゴパラと遊ぶのが大好きで... きっと前世で俺達の仲間だったんだ、そうとしか思えない。 道理でロバのクマールがお前に惚れ込む訳だ。

ほら、あそこにラクシュミが、夜明け前に家族で作った花輪を並べて...

ゴヴィンダは毛皮を撫でて身繕いし、立ち上がると、聖なるガンジスで沐浴する、残りわずかな信者を待つラクシュミの所まで歩いて行った。

猿の気配を背中に感じてラクシュミが振り返る。 ゴヴィンダを見るなり顔を曇らせ、「どうしたのゴヴィンダ? しょんぼりしちゃって。 あなたらしくないわ... またラダのことを思い出していたのね。 そうでしょう?」

澄んだ目にじっと見つめられて、ゴヴィンダは頷く。 どうして分かるんだ? この目は俺の心の中まで見えるんだ!

ラクシュミはマリーゴールドの花輪を一つ差し出して、「ほら、これをハヌマン様に捧げて祈るのよ。 神のお慈悲があなたの痛みを癒して下さるわ。」

ゴヴィンダは有難く花輪を受け取り、手首にぐるぐる巻きつけて、石段をゆっくり降りて行った。 見送るラクシュミの真剣な眼差しがかすかな微笑みに変わる。 陽がすっかり登って、今日の商売もお終い。 残りの荷物をまとめると、ラクシュミはすぐ近くにある家まで歩いて行く。 彼女が家族と暮らす家は、石段の中程にある広場に煉瓦を積み重ねて作った、畳二枚分ほどの小屋。

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雨季を締めくくる洪水が残して行った粘土は、今も河沿いにある全てを埋め尽くす。 でも石段に囲まれた古い神木は、もはや泥水に浮かぶ島ではなくなった。 木の根元には大小の神々が所狭しと並ぶ。 中でも猿の姿をしたハヌマンの神像が一番大きく、鮮やかなオレンジ色が滴るようだ。 そこまでやって来ると、ゴヴィンダは足を組んで座った。

恭しく、心を込めてラクシュミの花輪をハヌマン像に捧げると、頭を垂れて祈る。

「ハヌマン様、この馬鹿でどうしようもない猿をどうぞお許し下さい。 ラダが貴方に差し上げたかったトマトを、食っちまいました。 あいつが俺に話しかけているのに気付かなかったんです...貴方の御許におりますラダとゴパラをどうぞお守り下さい.....」

...どれ位時が経っただろう、一心に祈っていたゴヴィンダは、ようやく目を開けた。 山鳩がクークー哀しげな声で鳴くだけで、辺りには誰もいない。 不思議に心が静まり、胸の痛みも少し遠のいて、ゴヴィンダは落ち着いていた。 ゆっくりと深く息をし、掌を合わせてハヌマンに礼を述べ、ほとんど無意識に捧げ物のヨーグルトをほんのちょっぴり頂戴すると、まだ朝から何も食べていないことを思い出す。

そろそろ表通りの野菜売りを偵察する時間だな。 でも気を付けないと。 昨日あのろくでもないリキシャに前足を轢かれそうになったからな。 何てひどい世の中になったもんだ! ブーブーうるさいバスと来たら! 全く人間って奴は、疫病神だぜ!

「やぁゴヴィンダ、お早う! 久しぶりだね。」 唄うような明るい声が、ゴヴィンダの不愉快な物思いを打ち破る。

人類への憤りはひとまずお預けにして、ゴヴィンダが振り向くと、体が見えない程煉瓦で膨れ上がった籠を両脇にぶら下げて、ロバがやって来る。

「よぅ、クマール。 何ともすごい荷物だな! ちょっとの間、煉瓦の山かお前さんか分からなかったぜ。 元気にしてるかい?」

「愚痴をこぼすのは好きじゃないんだが...せっかく君が聞いてくれるから...あの死に損ない、いや僕の雇い主はひどい強突く張りでね。 ちゃんと運んだらすぐ荷を増やすんだから堪らないよ。 こっちが先に参ってしまいそうだ。 でもせっかく会えたんだから、もっと楽しい話をしようよ。 ねぇゴヴィンダ、僕の憧れの人、ラクシュミを近頃見かけなかったかい?」

「見かけるも何も、俺はついさっきラクシュミと話をしたところさ。」

クマールの気高い面長の顔を、複雑な感情が横切った。

「うらやましい、実にうらやましい。 僕は時々君みたいに自由になりたくて、やり切れない気持ちになる。 そうしたら毎日ずっとラクシュミのそばにいて、あの深く美しい瞳に見入ることができるのに。 彼女が僕の髪にそっと花を挿してくれる...あぁ、たてがみに指先が触れる...」

「ヒィーホー、ヒィィィー、ホォー!!!」 胸が張り裂けんばかりに叫ぶクマールの声は余りに大きく、余りに哀しくて、ゴヴィンダは思わず耳を塞がずにはいられない。

途端にクマールは恥じ入った。 「失礼、つい気持ちが高ぶってしまって。 彼女のことを思うと、何かに取り付かれたみたいになるんだ。 何故だろう、こんな気分になるのは初めてだ。 ラクシュミが前世でロバだったからとしか思えないよ。」

ゴヴィンダは目を丸くした。 「さぁ...確かにあの細やかな感性は、我々動物の仲間だったからだろう。 だけど実は俺もその事に付いては考えたんだが、俺は猿だったに違いないと思うな。」

礼儀正しい性分のクマールは、友人の意見に異を唱えるのを好まない。 しかし、これだけは譲れない。 「まさか。 そんな事は絶対にありません! あの繊細な長いまつ毛、輝く優しい目、ロバじゃなかった筈がない! ヒィーホー、 ヒィーホッ、痛っ!」

恋患いに苦しむクマールの切ない叫びは、親分がお見舞いした強烈な一撃で途切れた。

ゴヴィンダはうんざりした顔で、友達を痛めつける男を見つめた。 血走った目、脂ぎった顔、太った体に汚れたシャツ。 全くクマールの言う通りだぜ。 こいつは豚だ。

怒りに唾を吐き散らしながら、男はクマールを打ち続ける。 「この役立たず、怠け者のロバめ! 働かずに飯が食えると思ったら大間違いだ。 さっさと歩け!!」 ピシッ、ピシッ、クマールの尻に殴打の雨が降る。

クマールの見開いた目に紅い炎が燃え上がり、後ろ足がぴくっと動く。 今一蹴りさえすれば、こいつの命もこれまで... 何度こう思ったことだろう。 しかし炎は一瞬の内に消え、クマールは目を伏せてとぼとぼ歩き出した。 打ちひしがれ、涙をこらえながら、ゴヴィンダの方を振り返ると、震えるかすれ声で言った。 「またラクシュミに会ったら、僕からよろしく伝えてくれたまえ。」

「分かったクマール、必ず伝えるよ!」 陽気な風を装い、努めて愛想の良い、励ますような顔を作ってゴヴィンダが答えた。

「有難う、ゴヴィンダ。 良い友達を持って僕は幸せだ。」 クマールは気を取り直し、親分が追いつく前に小走りに去った。

ゴヴィンダはその場に憮然と立ち尽くして、だんだん小さくなるクマールを見続けた。

可哀想なクマール。 どうしてあんな気の好い奴が、地獄で火あぶりになって当たり前の悪党にこき使われなきゃいけないんだ。 食い物だって、どうせロクなもんじゃないに決まってる。 あぁハヌマン様、俺には世の中が分からない、この無知な猿は、一体どうしたら良いのか分かりません。 何も悪いことをしないクマールが、非道い目に遭う。 俺の自由をほんの少しあいつにやれるものなら...ラクシュミに逢いに行けるように。 でもハヌマン様、自由は俺のたった一つの宝だから、悪いけどクマールと俺の人生を取っ替えっこする訳にはいかない、俺はそこまで欲の無い猿じゃない...

あっ! 何だこの好い匂いは?

バナナを山積みにして、空気を甘い香りで満たしながら、大きなスポーク車輪が二つ付いた平たい台を、男がゆっくり押して来る。

ゴヴィンダは身を縮こませてじっと待つ。 台が目の前に来た瞬間、電光石火の勢いで飛び乗り、熟れ過ぎのバナナを一房つかむと、すかさずそばで野菜くずを食べている牛の背中に跳ぶ。 バナナを口にくわえ、男の手が棒に届く前に 近くの建物の壁をよじ登り、あっと言う間に猿の故郷、屋上の世界に消えて行った。

その夜、祈りに答えるかのように、ハヌマンはゴヴィンダに素敵な夢を贈った...

鬱蒼と茂ったジャングルの奥深く、ゴヴィンダはラダと一緒にマンゴーの枝に座っている。

「愛しいラダ、俺達はどこにいるんだろう?」 

「昔々のヴァラナシよ。 意地悪な人間が木を切ってしまう前、至福の森と呼ばれていた頃の。 隠者や聖らかな魂がインド中からここへ来て、神秘の世界への扉を探していた頃の。」

月の光にラダの毛先は一つ一つ透きとおり、星屑のようにきらめく。 気が付くとゴヴィンダ自身も青みがかった銀色に輝いていた。

「さぁ、行きましょう! 私について来て!」 羽よりも軽く、ラダが隣の木の枝へ飛ぶ。

「行く? 行くって、何処へ?」 

「ゴパラのところ。 ハヌマン様も待ってらっしゃるわ。」

ゴヴィンダは、夜の暖かく芳しい空気の中を、ふわりと跳んだ。 満月が生い茂った巨木の輪郭を銀白に照らし、複雑に絡み合う木々の影絵をジャングルの底に描く。 遠くで水しぶきの音がした。

あぁ、俺の長年の夢が叶って、こんな月夜を水の中から眺められたら! 青緑のガラスを通して波打つ月の光を...

ふいに木々が小刻みに震え、ぼうっとかすんだと思うと、風にそよぐ土手の草よりも柔らかい、波に揺れる長い草の林が現れた。 その濡れた草の間をゴヴィンダは滑るように進む。 暗い林の底へ銀の光が射し込んで、泥の丘や石ころや、横歩きをする奇妙な虫を明るく照らす。 何もかもが静かに揺らぎ、踊っている。


 
突然何処からともなく、長い大きな灰色の体がゆっくり迫って来る。 ゴヴィンダはぎょっとして、逃げようか隠れる場所を探そうか、慌てふためく。 温かく響く低音で、その生き物が静かに話しかけた。

「やぁ若いの、水の世界へようこそ。 猿の神様がお前の願いを聞いて、イルカにして下さったのさ。」

俺がイルカだって! 本当に? ゴヴィンダはすっかり嬉しくなって、強力な尾びれで水を何度も打ってみる。

河面の上高く跳ね上がり、満月のきらめき、月に照り映える森にたちまち目が眩み、宙返りをして頭から真っ逆さまに飛び込む。 新しい体にまだ慣れないゴヴィンダは、河底に積もった柔らかい泥にくちばしを突っ込んでしまった。
 
水面が波打ち、そのはるか下ではゴヴィンダのしくじりが泥を舞い上げて、急に辺りは暗く、何も見えない。

しなやかに揺らめく水草が悲鳴を上げる。 「ゴヴィンダさん、そんなに暴れないで。 あなたはなんてぶきっちょなの! 私達の染み一つない葉っぱを泥だらけにして! 誰もこんな私達と踊ってくれないわ。 あぁ、哀しい!」

「ごめんよ、ご婦人方、何もかも真新しくて、つい興奮しちまって。 あぁ目が回る!」

やがて泥は水底に落ち着き、水草はまた優雅に踊り、水の世界はすっかり元通りになる。 ゴヴィンダの身も心も、これほど穏やかに満ち足りたことはかつて無かった。

でも...ちょっと待てよ! ラダはどこへ行ったんだ? ゴパラは? たちまち心の平和は消え失せる。 

死に物狂いで突進し、探し回る。 心臓が早鐘を打つ。 何が何でも見つけなければ!

とうとう疲れ切ったゴヴィンダの目に、ほの暗い草の林の遥か向こうに見え隠れする、二つの輝く姿が映った。 そっと近寄り、キラキラ光る水の沫を通して見ると、ちっぽけなイルカが母イルカのそばで、楽しそうに泳ぎ回っているのだった。

「おぉーい、ラダ! ゴパラ! 俺だ! 今すぐ行くぞぉ!」 

水を震わせる低い声に自分でも驚きながら、尾びれを力いっぱい打って、ゴヴィンダはラダとゴパラを目指してまっしぐらに泳いで行った。
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