I’m a Little Worried
I’m a Little Worried サンプル
完全版のファイルを買う
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私達が人前で演奏しないのを批判する時、人々は何か大切なことを私達に教えていると思うらしい。「パフォーマンスしないなんて軟弱だね、ただの隠れミュージシャンじゃないか」優しくそう諭した奴もいた。
如何にも。 料理の上手い人はみんな、急いでシェフや板前の仕事を探すのが当然なように。
誰もが少しでも音楽していた頃、世界はずっと豊かだった、それを人々がすっかり忘れてしまったのは余りにも悲しい。録音がなく、パフォーマンスは稀で、口笛を吹いたり子守唄を歌ったり、何か唱えながら働いたり、人々が自ら作る音楽が、全てを包む神々しい静けさに趣きを添えていた頃。
もはや創造者ではない、だらけた心にへたり込み、実際に音楽するよりその振りをする方が得意なパフォーマンス専門家を、ただ聴くだけの存在と化した、醜く危険な現代社会の姿。
さて私達はそんなことを信じない。
私達が「パフォーマンス」した時、と言っても静かな自宅でほんのわずかな友人の前だけだが、それでも音楽する自分の真似をしているに過ぎないのを、 パフォーマンスしようとすることが本物を不可能にしているのを、いつも痛い程感じていた。
私達の物真似に説得力があったとしても、自分は騙せなかった。 楽なものに程度を落とし、耳慣れた安全なパターンに終始して黄金の輪を目指そうとしない。 最悪の場合冒とく的で穢れた感じ、良くても少々ずる賢く浅ましい気がした。
自分達だけで、ぎこちなく聞こえるのを恐れない時はどれ程違うだろう! 音楽していることすら忘れ、渋い音だなどと考えるのを止める時、震えしびれ謎めく何もかもが魔法に変わる時、私達の息が自然に合う時。
もちろんパフォーマーはみんな口を揃えてそうではない、聴衆が彼らにインスピレーションとパワーをくれると言い張る。 分かり切ったことを彼らはめったに認めない、つまり根本から新しいものを人前で試すのは怖いとか、十分マスターしているか、少なくともある程度コントロールできる以外のものを、ステージで観衆の目にさらされながら、敢て演奏はしない、と言う当たり前のことを。
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音楽するふり
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生演奏のパフォーマンスは社会的に重要な役目がある。 兵士達を力付け、 信徒を説教を聴く気分にさせ、結婚や卒業を祝うのを助け、若者が相手を見つけられるような状況を作り出す、等々。
しかし実際に神聖な炎をもたらし、聴く者を普段の世界より高い処へ導くのはごく少数で、残りはただ音楽する振りをしているだけだ。
自分達がこんな風に考えていると初めて気付いたのは、30年前、ヴァラナシでインド古典音楽のシーンにどっぷりハマっていた時だった。 注意深く聴くにつれ、先生方はしょっちゅう音程が外れており、自身が教える込み入ったリズムを、聴き手が納得するほどに披露できないのが耳に留まるようになった。 パフォーマンスする時彼らは音楽を演奏すると同じ位、演技していた、滑らかな手の動き、晴れやかな笑顔で技術の不足を補いながら。
現代社会に戻ってまもなく、今度はその音楽がもっとひどい状態だと分かった。 ここでも決して信念を捨てないパフォーマー以外は、誰もが音の魔法に我を忘れるよりは、芝居を打つことに専念していた。
あらゆるタイプの音楽で起こっている中で、「振りをする」ことが正式に唯一のやり方となってしまったポップの世界で、それが最も顕著でグロテスクだった。 音楽ビデオが音楽よりも重要になり、歌手にとっては声よりも胸やお尻のサイズの方がものを言った。
我らの文明が生き延びるためには何て不吉な兆しだろう、今や商品の質よりも包装の方が肝心と見なされるとは。
正しい見かけ、正しい認定資格が、必要な正しい技能を持っていることよりも大事だとは。
そんなナンセンス、何かをする要点はそれを成し遂げることで、ただした様な振りをするだけではないことに気が付かないなんて、信じられないと思うのだが。
否、「本物」かどうかを気にするのは時代遅れ、 堅苦しい、心が狭いと見られる。
「全ての信条は相対的、何が良いかなんて誰に分かる、行為はすること自体が結果よりも大切だ。」
口で言うほど簡単だったら。
それでもパフォーマーが支払いを期待するのはもっともだ。 彼らがすることは長年の訓練を要するし、きつい仕事でもある。
ただほとんどの場合、彼らの作り出すものは音楽ではない、と言うか、少なくとも魔法の音楽ではない、生命力に満ちた音楽、新しいものへと導く音楽ではない。
本物の驚くほど生ぬるいイミテーションに過ぎないことの方が多い。
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パフォーマンスしない利点
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もし人前で演奏していたら、私達の音楽はここまで大胆に風変わりで違ってはいないだろう。
演奏の場を見つけるために、自分達のものが既に有るジャンルに収まるまで、削り取らなければならなかっただろう。 「ニューミュージック」とか「前衛クラシック」、「ミニマリスト」、「フリージャズ」、「フュージョン」...などと名付けられ、受け入れられる形になるまで。
そしてもしそんな場所を見つけ、私達の作り出したスタイルが注目を浴びたとしたら、私達の成長はそこで止まっただろう。
でも率直な処、私達が自作の楽器で、人前に出せる程疵のない音楽を演奏できるようになる可能性は、まずなかっただろう。この楽器達はコンサートホール向きの、飼いならされ設計された機械ではない。 生まれつき野性的、大人しくすることを好まない、彼らは私達の友達であって、召使いでも道具でもない。
私達のしょきの指穴は格別大きく、ボウアス族の楽器にはガット弦がごく緩く張ってあり、どちらもいつ何時、新しい音域へ跳び、唸り声を出し、口笛を吹き、叫び、轟き、囁き始めるか分からない。 それが彼らの魅力、美しさ、不可思議な強み、暖かさ、命。 行儀良くすることを無理強いし、繰り返し出せる丸い音色以外の音を禁ずることは、彼らを片端にし、無駄にするだけ。
また私達のクォータートーンカリンバは、理屈では調教可能かも知れないが、一つ一つのキイが倍音の独自で奇妙なブレンドを歌い、キイとキイの間の音程は不規則で、ウルフ音がどっさりある。 鍵盤楽器にしては、とてつもなく権威に楯突く性格の持ち主。
だから私達は本気でパフォーマンスに取り組もうとはしなかったのだ。 自分達には無理なのが明らかだったし、自作の楽器の音が余りにも予期できないことを知っていたから。
と言うことは、リアルタイムでミスのない演奏をする為に欠かせない、過酷な練習をしないで済んだ。 同じ事を何度も何度も繰り返す結果、脳に深い溝を掘り、奏者を既得のパターンに閉じ込め、指・手首・腕・首・背中・喉を駄目にして、数え切れない人々の音楽活動に終止符を打つ、あの練習。
聴衆に聞こえるように大きな音で演奏する必要もなく、幾世代ものヴァイオリン奏者のように片耳が聞こえなくなることも、ほとんどのポップパフォーマーのように両耳の聴力を失うこともなかった。 代わりにリラックスし、音量をソフトに抑え、繊細な表現を目指すことができた。
夜ふかしをし、騒音と煙だらけのバーにたむろし、遠い会場まで出向き、不健康な外食をし、頭痛や腹痛に耐えて演奏し...そんなことをしなくても良かった。
私達がパフォーマンス?
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もちろん私達も或る意味ではパフォーマンスをしたが、それは自宅でマイクを唯一の聴衆としてだった。 そしてマイクは人間ではないものの、そこにあるというだけで、私達の聴き方を変えた。
「他の人にはこれがどう聞こえるだろう?」と問い始めたのだ。
速い部分は、録音するとたいていヒステリックに聞こえたので、一つのCDから次へと進むにつれ、私達の音楽はだんだんゆっくり落ち着いて行った。 ドウターラとベイスボウアスは低音に集中するようになった、キィキィ甲高い音を魔法に変えるのを学び始めたばかりだったから。 カリンバではより単純なパターンを弾き、キイをどう打つかにもっと神経を使い、音の心地よさ、響きや音色に耳を傾けた。
要するに、パフォーマーが自分の聴衆の為に演奏することを学ぶように、私達は自分の録音機器に合わせて演奏することを学んだ。 そして彼らが生演奏について主張する如く、録音の難しさは確かに私達の体験を鮮烈にした。
私達を強くし、スキルとやり遂げる意志を与え、コンピューターを使いこなせるようにしてくれた。 それ無しでは Work In Progress の驚くべき音楽を決して創造できなかった様々のことを。
また、もし自作の楽器を録音したいと思わなかったら、その内で最も複雑なものは作らなかっただろう。 ドウターラ、ベイスボウアス、ボクサスクォータス、ボーダスクォータス、みんな夢に過ぎないだろう。
だから、私達にとって「パフォーマンス」と同じ役目を果たしてきた録音、自分の音楽を世に広める独自のやり方が、この上ない実りをもたらしたのは疑いの余地もない。
それでもパフォーマンスが、ごく一部の例外を除く全てのミュージシャンの成長を止めるように、十年に及ぶレコーディングは私達の音楽生命を奪うところだった。
実際 Work In Progress の後七年間、私達はもうお終いに見えた。 二人で音楽することは仕事になり、もはや悦びでないのに、自分に無理強いできなかった。 汗水垂らして作った楽器は、触れもせずただ置いたまま、自分達の失敗を思い出して気が滅入るだけ。
ところが2020年になって突然、私達の暮らしに音楽が爆発的に蘇った、より不思議に、さらに腕を上げ、一層自信に満ちて。
諦めて、録音しようとするのを止めた結果、何か素晴らしいことが起こっていたのだ。
私達は再び夢中になった、二人一緒に音楽することに、自作の楽器に、自分の音楽に。
私達のドラマは中止になったのではなかった、またもや私達は魔法を見つけた。
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聴衆の一人であることについて
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長年の間パフォーマーとパフォーマンスが与えてくれた楽しみについては、さてどう考えれば良いか、今一つ分からない。 何十巻ものカセットを抱えて、インドまで旅した事実は否定できない。
もしバッハやグレイトフルデッド、コルトレーンやアリ・アクバル・カーンを一度も聴かなかったとしたら、私の人生にはきっと何かが欠けていただろう。 彼ら無くしては、今しているような音楽を私はしていないだろう。
光子もベートーヴェンやキャロル・キング、モンク、シーヴクマール・シャルマーに対して同じ気持ちを持っている。
けれども独自の音楽に真剣になればなるほど、他のものは聴かなくなった。 特に好きなものは頭にこびり付いて、新しい音楽をする邪魔になった。
やがてこの音楽を聴かないと言うことが、はっきり自覚した方針となるまで。
そしてその効果はあった。 良かれ悪しかれ、私達は今や自分以外の音楽界とは全く波長がずれている。
昔のお気に入りを試しに聴くと、薄っぺらで説得力に欠ける。 音楽のアイデアが足りないのをテクニックで引き伸ばし、膨らませ、肉付けされており、ほとんどの場合2〜3分で十分だ。
私達の音楽のやり方も、普通音楽すると呼ばれるようなやり方とは相当違うものになった。 楽器を取り出す度に新しい冒険が始まる。 何が起こるのか自分でもさっぱり予想がつかない、計画も練習もリハーサルも学習もしない。 半ば目を閉じて夢心地、お互いに近付いているかに、隠れた魔法に耳を澄まし、そうなると、音の魔法をやり取りして遊ぶ。
私達の頭が他の音楽であれこれぎっしり詰まっていたら、こんなに自由自在にはなれない。
ここは禅っぽく、昔聴いた音楽は月そのものではなく月を指す指、一旦上の階に登れば必要ないハシゴに過ぎない、と言いたいところ。
でもそれは私達には少々利口過ぎ、簡単過ぎ、高尚過ぎる、一度もノイズを聴いたことがないと聖者ぶるジョン・ケージ先生みたいになりすぎる。
パフォーマンスに対する自分達の姿勢が、一貫しないことを認める方が良いだろう。
自分達の不十分な理解にニッコリする方が。
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